何か


自分自身の中で


“動き”を感じるとき


私は


すぐに


“何を学べと言っているのか”と


自分自身に問います。






例えば


夫の言動に


「あれっ?!」と


想ったら


すぐに


言葉は出しません。


言葉が出そうになっても


私は


必ず


言葉を出さないように


留意して、


私自身の内側を観ます。


最近は


特に


それを強く意識します。






「あれっ?!」


そう想った時、


それが


怒りなのか、


相手に対する裁きなのか、


批難批判なのか、


はたまた


私自身の甘えや依存なのか....






私自身に


どんな考え方のクセがあり


そのクセについて、


今ここで


気付き


学びなさいと


言われている...、と


瞬時に


自分自身に


問いかけます。







すると...


1つの出来事から


無数の答えが


出てくるのです。








相手に依存や甘えがありながら

相手が

自分自身の思い通りにならなかったら

相手に対して

怒りを感じるクセ、に

私は

 気付きました。




思いのクセは

身近な関係の人に

特に出やすく



自己改善は

常に

足元から、だと

身につまされます。




自分自身に

甘えや依存があるとき

100%絶対に

私の場合は

“【私】の想うように事は運びません”。




【私】は

偽我の想いしか無いのだから

思い通りにいくはずないです。





そんなことに

気付いたら

すぐに

【個我】の“私”意識を棄てます。





【全てを御身に委ねます】

そう想いながら

目の前のやるべきことに

ひたすら

専念します。




そんな風にしながら

毎日

毎日

積み重ね、

“神様ならばどう想うのか”

“神様ならばどう話すのか”

“神様ならばどう行うのか”を

意識してきましたし,

今なお

意識しています。





子どもの頃、

学んできたように

算数の足し算を学んだら

次は

引き算

かけ算

割り算...

そんなふうに

段階を経て学び行くように、




1度

学びを得て

確実に修得できているなら

前の学習に

戻ることはありません。




同じように

在り方や生き方も

自分自身と

真正面から向き合い

自分自身を知り、

気付き

改善していくならば

同じような事象が

いつまでも

いつまでも

続くはずは在りません。



かりに

同じような事象が

起こったとしても、

自分自身を改善していくことを

積み重ねているならば

受け止め方が

180°変化していることに

驚くはずです。






自分自身から逃げず

真正面から向き合い

自分自身を知ろうとするとき、

そこには

勇気、

強い意志、

忍耐、

努力は

必要不可欠だと

気付きました。



だけど、

本気でやり抜く、と

決意してから

私が出逢う人は

美しい方々ばかりだ、と

観じます。




そして、

“何を学べと言っているのか”と

身を以て

学べる今が在ることは

本当に奇跡であり

幸せなことだ、と

私は

解釈しています。




熊本県合志市野々島

なぎの木整体

MOE