2011.3.11
テレビから流れる
東北の地震の映像を観て
8か月の赤ちゃんを
抱きながら
涙したことがありました。
まだ3月半ばの東北で
あれだけの被害を受け
私のように
赤ちゃんのいる家庭は
どのように過ごすのだろうか。
まして
まだ雪降る中
避難所では過ごせない方は
どのように過ごすのだろうか。
自閉症など
特有の感覚的な敏感さのある
人たちは
集団の中で
日常生活とは異なる動きの中で
どのように過ごすのだろうか。
「可哀想」
あの時
私の中に在った想いは
間違いなく
“可哀想”でした。
そして
泣きながら
思いました。
「神様
なぜ
こんなにも
酷いことを
なさるのですか。
神様
あなたがいるならば
なぜ
こんなにも
悲しみを生み出すのですか。」と。
そして
2016.4.15
2016.4.16
熊本地震が
起こりました。
泣いている余裕は
全くありませんでした。
「神様
なぜ...」
問うている余裕は
全くありませんでした。
“可哀想”???
そんなこと
想われたくは無い、と
あの時
そう思いました。
あの時、
私は
知りました。
「可哀想」って
安全パイにいる人が
自分自身より
困難な状況にある人に対する
想いから派生することを。
「可哀想」
そう想った後、
では
困難な状況にある人のために
私は
動いたのだろうか...
私が
やったことは
涙を流し
神様に泣き言を言い、
少しでも
自分の苦しみから
解放されたい、と
僅かながらの
募金をした...
それだけでした。
熊本地震を
体験した...
あの時。
私に光を与えてくれたのは
混乱する映像を流す
テレビでも無く、
ネット情報でもなく...
あの時
私に光を与えてくれたのは
与論島に住んでいた頃
親しくしていた方から
送られてきた
鹿児島のスイートポテト。
おそらく
最も大きな箱に入った
フェスティバロの
スイートポテトは
私たち家族揃って
味わった
“生きていられて良かった”の味でした。
私に
スイートポテトを
送って下さった方は
手紙を添えて下さっていました。
【募金をしても
どこに使われるか分からないし
MOEちゃんのところは
震源地から近かったのを知って
知っている人の元に
自分自身のできる最善を尽くしたい、と
そう想って送りました。】と。
(募金を否定している訳ではありません)
この肉体は
簡単に被害を被り
明日には
この世界に
居ることはできぬことを
熊本地震によって
身を以て知りました。
自分の意志では無く
【生かされていること】に
納得しました。
目に見えるものしか、
耳に聞くものしか、
信じられないならば
テレビから流れる映像は
「何でこんなこと起こるのか」と
悲しくなり
時には
無力感に襲われ
怒りさえ感じるかもしれません。
感情は
揺れに揺れ動くのでしょう。
だけど...
映像ではなく
身を以て
体験したことは
絶対に忘れません。
“あの時”
どれだけ
今が在ることが奇跡なのか、を知り
どれだけ
人が人のために働けるのか、を知り
どれだけ
【自分自身を見つめることが大切なのか】を
“本気で”
向き合おうと
想う始まりになっていきました。
これは
間違いなく事実です。
また、
熊本地震によって
自らの意志で
それまでの仕事を辞め
在り方や生き方を
変えた人とも
逢いました。
体験したら
そこから学び得たものは
絶対に忘れません。
映像を観て
嘆き悲しみ
「なぜ、なぜ」と
悲劇のヒロインを演じていたのは
私が
そのような思考のクセがあったからです。
長い人生、
悲劇のヒロインをして
生きていたことに
熊本地震によって
私は
気付いたのです。
(悲劇のヒロインは
しかしながら
私から完全に無くなるまでは
さらに
月日を要しましたが...)
起こる現象は
必ず
原因があり、
この世界は
間違いなく
【愛の法則・慈悲の法則】によって
動いていることを
実感できたとき
テレビから流れる映像を観ても
静かな心で受け止め
今
自分が何をしたら良いのか、が
観えてくる...
私は
そう解釈をしています。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
MOE