これは


本当に


恥ずかしい限りの話です。






教師だった頃


当時


小1の担任をしていました。




その中に


Aちゃんという


女の子が在籍し


わずか


2歳の時から


家族の元を離れ


知的障がい児の


入所施設で


生活をしていました。




そのAちゃんは


自分の気に入らないことがあると


暴言を吐き


つばを吐き、


周りに居る人に


当たり散らし、


私が叱ると


今度は


自分の頭を


力任せに


硬い床に打ち付け


泣き叫ぶのです。






私は


その原因を


幼少期から


 家庭の中で


両親の愛を受けられないほど


Aちゃんは


いわゆる問題行動が多いが故に


施設に入れられたからでは無いか、と


当時は


そう思っていました。


大人からの愛の不足の結果だ、と


そう思っていました。



そして


私は


教師だったにもかかわらず


Aちゃんが


“嫌い”でした。




しかし


教師の自分が


在籍する児童を


“嫌い”に感じることについて


罪悪感がありました。


そして


私は


この罪悪感を感じたくない故に


経験を積んだベテラン教師に


訊いたのです。



「これまで教師をしてきて


 嫌いな子どもは居ましたか?」と。



ベテラン教師は


ハッキリ言いました。



「もちろんいました。


教師といえども


人間ですから。」







この言葉ほど


私の罪悪感を


払拭する言葉は


ありませんでした。




「あぁ、


私は悪くないんだ」と。





それで


問題は


解決したのか...。








自分自身と


真正面から


向き合って


Aちゃんを


なぜ


“嫌い”と思ってしまうのか


という問いに


逃げずに


立ち向かえない


私自身の弱さを


本来ならば


責めるべき、


また


改善すべき点


だったのです。


私は


その1年、


その女の子と


つかず離れず


当たり障り無い程の距離で


当たり障り無い程度の


教育をしていました。


もっと言うなら


“教育”をしていると


勘違いしていました。





未熟さ故とは


思いますが、


このような者が


教師だったんです。




恥ずかしい限りです。






そんな経験を経て



ホームステイとして


中1の男の子を受け入れてみて


改めて


思うのです。





子ども達と


関わる人ほど


色眼鏡で


子ども達を


ジャッジしてしまうことが


無いように


自分自身を誤魔化さないで


自分自身を知る努力をすることの


必要性を。




子ども達と


関わる人は


無数にいます。




親をはじめ


教師


保育士


看護師


ドクター...など。







体験してきたからこそ


自分自身を改善し


今が在ります。





全ては


学びを得るために


必要として


起こっていることと


思えるならば


起こる出来事に


感謝しか感じなくなるのでは無いか、と


私は


そう思っています。




熊本県合志市野々島


なぎの木整体


Moe