【自己啓発本】
【スピリチュアル】
これらの本を
大学時代から
むさぼるように
読みあさってきました。
特に
大学を卒業し、
社会に出て
働くようになってからは、
すがるように
読んでいました。
でも...
読むときだけしか
安堵感はなかったのです。
日曜日には
すがるように
読んで読んで
読み続け、
「よし、分かった!」
そう思うのも束の間で
月曜日の朝になるときの
あの心理的状況は
日本人ならではの
ものなのか...
「分かった!」と思った
あの感覚は
本当に幻と消え去り
あっという間に
普段の”自分“に
なっていました。
これが
情報だけをインプットした
知識を詰め込んだ結果だと
知ったのは
かなりの年数を
経てからでした。
私が
求めていたのは
【知識】では無く
【実感】でした。
今では
スマホやタブレットが
普及し、
簡単に
情報が手に入りますが、
ある時から
私は
全く
【自己啓発】
【スピリチュアル】類いは
見なくなりました。
ある聖者は
言っています。
「知識によって
穢される」と...。
これは、
知識を
頭にいっぱい詰めた結果、
実際に
困難な状況になったとしても
智慧として生かせないこと、
日常生活に於いて
優しさや温かさや思いやりなどを
表現できないこと、
自己探究できていないことなどを
現した言葉では無いか、と
私は
今
解釈しています。
自分自身を
観るためには、
外部の刺激を
一切取り込まないことも
時に
必要になる、と
思います。
私は
1人
畑にいながら
自然の中で
風と呼吸を合わせるとき、
太陽に身を任せるとき、
空を碧く観るときに
”自分を観ます“。
ある時から
必要最小限の本のみを
選んで読むようになりました。
【ある時から】
それは
人生で
もっとも苦しかった時。
【心身の神癒】
【キリストのヨーガ】
【人間の永遠の探究】
【あるヨギの自叙伝】
この4冊だけです。
そして
その中でも
【心身の神癒】は
本のカバーは破れ
本は
マーカーで
彩られるほどに
大切な本になっていました。
情報溢れる時代だからこそ
余計に迷い困惑しやすいならば、
よりしろとするのは
徹底した
自己探究だと
私は
実感しています。