私の父は


厳しい人でした。


自衛官という


職業柄も


合い重なり、


その厳しさは


半端ありませんでした。



どのようなものかと


その例えを


1つ出すとするならば...




私が


小3くらいのとき、


私は


車のボンネットに乗り


滑り台に見立てて


滑り降り


楽しんでいました。


その感覚は


私を魅了し、


何回も何回も何回も


繰り返しているところを


父から


注意されました。


官舎の2階から


止めるようにと


声かけされたものの


私は


止めること無く


車のボンネットで


 滑り台をしていたら...



父は


官舎の2階の部屋から


外に出てきました。


手に


バットを持って...。



私は


車から


離れて


走って逃げましたが、


父に


捕まりました。



今の時代は


想像できないかもしれませんが、


私は


このバットで


お尻を


叩かれています。



こんなことは


数多くある


父からのお灸を据えられた


僅かなエピソードにしか


過ぎません。




学校も

かなりのものでした。

私は

鹿屋基地のある

最寄りの

中学校に通っていましたが、

その当時の中学校は

荒れた学校で

評判でした。

しかし

実際に通っていた私には

素晴らしい学校でした。

生活指導の教師は

それはそれは

厳しくて、

私が

紺色のタンクトップを

下着として着ていただけで

「校則では下着は白と決まっている」と

竹の 30㌢物差しで

正座させられた上で

頭を叩かれました。

この生活指導の教師は

常に

竹の物差しを

持っていました。




どれだけ

叩かれたことでしょう。



だから

【痛み】を

知っているのです。


そして

私自身の間違いが

確かに

“そこに”は

在りました。






叱ってくれて

【ありがとう】

です。








私が

教師になり

経験を重ね

月日が流れていく中で、

若い女性が

チームになった時

その若い女性教師の

児童への対応に

私が

指摘したら

一言

このように

返ってきました。


「親にさえ

 叱られたことなかったのに、

 心が折れそう...















はいっ??








子ども達を

叱れなくなった

学校現場を

私は

知っています。











私は

子ども達は

様々な体験を経る中で

身体を通して

 気付きを得て

学び行くことを

自分自身の経験から

知っています。

そして

その体験は

大人から見て

必ずしも

正しいこと、とは

限りません。

しかし

間違ったことを体験し

痛い想いをするからこそ、

2度と同じ過ちは

繰り返さない智慧が付くのです。



私に

無限の気付きを教えてくれたのは

毎日行っていた

山々でした。

その山遊びで

有り余るエネルギーを発散し、

小川の流れや

木々の葉や

虫や花から

この世界の美しさを

見付けていったのです。

山から滑り落ち、

木から落ち、

打撲や

擦り傷を

たくさん作っていました。







私は

知識的な頭の良さは

ありませんでしたが、

生きていくにあたり

大切なことは

いつもいつも

胸の内で

観じていたことを...

今なら

ハッキリ分かります。




間違いに

気付けることは

【幸せなこと】だと

私は

解釈します。



また

間違いを

間違いとして

厳しく叱ってくれる人がいることは

【有り難いこと】

なのです。



小さいときから

叱られることに

慣れていない子は

(身体が)成長し

(身体が)大人になって

他者から

何か指摘されただけで

途端に

すぐ

「心が折れそう」とか

「私なんて生きてる価値ない」とか

逆に

「あの人嫌い」とか

「私は悪くない」とか

美しくは無い表現をします。





そんな生き方をする大人が

どのようにして

子ども達を

育てたり

教育したり

できるのでしょうか。




私は

学校現場では

異質な存在ではありましたが、


あらためて

学校現場を辞めて良かった、と

あの時

決断した

私に対して

その勇気と行動力に

頭を下げたいくらいです。






私は

我が子に対して

間違いを指摘してくれた

小4の男の子に対して

「ありがとう」と

頭を下げて

お礼を伝えたこともあります。




そして、

私自身も

朋友のやんちゃな息子

2人の兄弟に

行いの間違いを

指摘したことも

ありました。




その時も

私が

想ったのは

子ども達の美しい在り方を

創造したかったから...



ただ

それだけです。




自分自身の

感情にまかせ

怒りで

伝えたわけでは

ありません。







間違いに

自分で気付けるならば

その時

想いや言葉や行いが

改善できますが、

間違いに

自分で気付けなければ

同じ間違いを

何回も何回も何回も

繰り返してしまい

自分自身だけでは無く、

周りを巻き込み

時に

傷つけてしまうこともあるから...







「叱ってくれる人が

 いること」は


有り難いことなのだ、と


強く感じています。

熊本県合志市野々島

なぎの木整体

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