毎日
ブログを
綴る私だって
思ったこと、
ありますよ。
「優しさだけを
表現できる人だったら
良かったのに」って...。
「いいよ、いいよ」
「大丈夫だよ。」
笑顔で
いつだって
“優しさだけ”を
表現できたら、と。
ところが...
違うんですよね。
教師として生き、
母として生き、
1人の人間として
生きていく過程に於いて
関わる人の中には
気付かないうちに
過ちを犯してしまっている人が
時には
いるんです...。
例えば、
薪ストーブの
ゆらゆら揺れる炎を見て
興味を持ち
ハイハイする幼子は
薪ストーブに
近づこうとしました。
「ダメっ」
身体を
張ってでも
厳しい顔をして
止めなければ
なりません。
図工に使う
カッターナイフを持って
振り回している
生徒がいるならば
やはり
厳しく対応しなければ
なりません。
時として
「いいよ、いいよ」
「大丈夫だよ」とは
決して
言えないときが
あるのです。
私は
授業参観のときも
普段と変わらず
間違いは
間違いとして
児童生徒に対して
厳しく対応してきました。
教師の中には
保護者の来られる
授業参観と
普段の時と
言動が違う人も居ました。
子ども達は
賢いので、
そんな教師を見抜き
授業参観のときに
わざと
叱られるような行いをするのです。
自分たちの親が来ているから
今日は
叱られないだろうって...。
自分自身の身を守るため
状況が
変わると
態度を変えるような
意識の在り方の教師では
絶対に
子ども達を
素晴らしい
美しい道には
導けません。
私が
時々
話題に出す
高校時代の友人も
悩み
苦しみ
様々な状況であっても
私は
何十年も
「いいよ、いいよ」
「大丈夫だよ」と
伝えてきました...。
彼女は
1番
精神的に辛かったとき
「お母さんが大嫌い」と
言いました。
また
ご主人に対しても
「あの人のせいで苦しい」と
言いました。
私は
もう
「そのままのあなたで
いいよ、いい」とは
言えなくなりました。
“優しさ”を
履き違いするなよ、と
自分自身に
厳しくしました。
他者を
悪く想い
悪く言う
自分自身を
改善しなければ、
何も
変わらないから...こそ
私は
彼女に対して
「自分自身と
真正面から
向き合おう。」と
伝えました。
厳しいようですが、
事実です。
そして
それは
誰かが言わなければ
苦しむ本人は
絶対に
気付けません。
気付けるならば、
苦しんでいません。
しかし
苦しみから
気付きに至ることも
確かに
あります。
本来ならば、
苦しいことや
辛いことがあったときに
自分自身を
真正面から向き合い
自分自身を
改善していけるならば
そのようなことを
伝える必要は
全くありません。
また
こちらから
わざわざ
指摘することでも
ないのです。
ないのですが、
約1年前のあの時
彼女は
ご主人を
相当に
非難批判していました。
私は
彼女には
もうこれ以上
同じ過ちを
繰り返しては
欲しくなかったので
一言だけを
伝えたのです。
「自分自身と
真正面から
向き合おうよ」と。
「何から逃げてるの」とも
伝えました。
逃げても
逃げ切れぬ事を
知っている私は...
自分自身と
真正面から
向き合うことの大切さを
そして
生きる素晴らしさを
生きる意味を
共に
実感したかったのです...。
が、
彼女は
私とは
また違う道を
学びの道として
歩み行くことになり
連絡は
ありません。
そして
私は
そんな出来事があったとしても、
時によっては
場面によっては
人によっては
厳しさを
伝える勇気が
必要なんだ、と
思っています。
例え
「大嫌い」と言われても...
非難批判されても...。
薪ストーブに近づく
幼子に対して
身を張って
動きを停止させ、
カッターナイフを
振り回していた生徒に対して
身を張って
動きを停止させたように...
想いが間違って
言葉が間違って
行いが間違っていたら...
わざわざ
こちらから
進んで
指摘するようなことは
しないにしても、
「ここぞ」
という時には
伝える必要があることを、
今、
改めて
思います。
それは
ひたすらに
自分自身をみつめ
自分自身を改善し
努力し続ける人にしか
できない“厳しさ”の表現だ、と
私は
思っています。
誰だって
嫌われたくはありません。
誰だって
非難批判されたくはありません。
だとしても
その人の
本当の幸せのために
時には
“厳しさ”がいること...
その厳しさこそが
私自身にとっては
深い“想い”だと...
忘れるな、
琉球の心。
武力使わず
自然を愛する。
自分を棄てて
誰かのため
何かができる
(琉球愛歌より)
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
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