「先生って好きじゃない」
「先生って嫌いだ」
そう言われたことが
何度もあります。
現職時代から、ずっと。
今なお
耳にする事があります。
1番身近な人は
母でした。
さらには
夫でした。
また
最近
ご縁ある方からも
言われました。
「先生って
好きじゃないんですよね。
話も合わないし...。」
母に
訊きました。
「なぜ
教師が嫌いなの」と。
母は
言いました。
「先生は
いつも
怖い存在だった」と。
夫に
訊きました。
「なぜ
教師が嫌いなの」と。
夫は
言いました。
「音痴だった自分に
音楽の教師は
合唱コンクールで
【お前は唄うな。
口パクだけしてろ。】
そう言った。
ある時は、
掃除をさぼっている人を
先生に伝えに行ったら、
【告げ口するような
お前の行為自体が良くない。】
と叱られた。」と。
私自身が
教師だった頃、
1番入りたくない場所は
校長室でした。
悪いことなど
何一つとしてした記憶は無くとも
何故か
緊張し
「叱られる...」
そんな萎縮した気持ちに
なっていました。
職員室でさえ
私は
好まず、
荷物を置いたら
そそくさと
自分のクラスに行き
教材作りなどの
仕事をしていました。
「先生って好きじゃないんですよね。」
「先生は嫌いだ。」
私は
この言葉に
「私も、です。」と
答えていました。
そして
今も
答えています。
それは
何故か?
自己を追究しない人間が
教師という職に就いた時、
自分の中に在る
様々な
観念概念や思い込みで
児童生徒をジャッジし
教師の中に在る
“良い児童生徒像”に
児童生徒を
型ハメしようとします。
そして
それに反発する児童生徒に対して
教師の感情により
怒りなど
全面的に
ぶつけていきます。
教師自身の中に
どんな思考のクセがあるのかさえ
気付いていないので、
状況によって
対応がコロコロと変わり、
その矛盾する対応に
外部から何か意見を言われたら
メンツを気にする教師は
今度は
思考を巡らし
様々な言葉で着飾って
自己の正当化に一生懸命になります。
美しくないです。
こんな姿を
さらしているものを
「好きです」とは
言えません。
そして
そんな教師に
学校で
教育を受けた子ども達は
大人になってから
口々に
言います。
「先生は嫌いだ」と。
それは
その頃の記憶が
根深く残っているからでしょう。
それだけ
教師の在り方は
幼少期に於ける
子ども達に
強い影響を与えるのだ、と
改めて
思います。
しかし
私は
教職は辞めたとしても、
教育を諦めたわけでは
ありません。
むしろ
学校現場で
教師をしていた頃よりも
ずっと
深く広く
教育を追究しています。
今
私の意識は
日本の枠を超え、
アメリカやフランスや
中国やドイツの教育についても
話を聴く機会に
恵まれるようになりました。
教育とは
ハウツー
ではないのです。
また
“教育”(キョウイク)は
“響育”・“共育”として
教えようとする人も
教えられるとする人も
共に
学び高めあい
美しい姿を通して
お互いの胸に響き合う
一連の体験・経験を行うこと、だと
今の私は
理解します。
共育・響育とは
光です。
この世界の根幹にあるもの。
この世界を創造するもの。
だからこそ
自己を追究することが
何よりも
求められるのです。
そして
それを実践し、
日々
在り方や生き方を通して
伝えてしくしか
道は無いのです。
だから
私は
いつも
私に問います。
“本当に
偽りなく
生きているのか”と。
共育・響育には
無限の可能性が在るから...
私は
今日も
私の内を
見つめていきます。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
Moe