弟が生まれた


2才半頃から


「自分とは何か」


「何のために生まれたのか」


「何で生きているのか」を


ずっと疑問に思いながら


生きてきていました。





その答えを知りたくて、


その答えを見付けたくて、


“教師になれば答えは分かるはず”と


教員になったのです。






しかし


私がいた学校現場で


私の求める答えは


見付けられなかったのです。






“自分とは何か”





もう40年以上も


ずっと


ずっと


求め続けた...





そして









【自分】とは


・自ら分かれたもの


・自らを分けるもの




ハッキリと


実感として


理解しました。




・自ら分かれたもの...


本来1つであった本質(愛・光)から


自ら


分離してしまった意識の在り方。







・自らを分けるもの...


本来在るべき1つのはずのものから


「あの人と私は違う」など


区別や差別するような意識の在り方。


良い、悪い。


光、闇。


〇、×。


白、黒。


男性、女性。


早い、遅い。


その他無数の相対的もの。





自ら分かれたものは、


個の意思によって


本来1つのはずのものから


分離しました。


学ぶために、


気付くために、


己を磨き還るために。








自ら分かれたもの(個)は


自らを分けるものの意識によって


本来のものの見方ができません。


いつも


相対性の中に生きているので、


落ち着くことも無いのです。






“自分”を求め続けた今、


私は


“自ら分かれたもの”や


“自らを分けるもの”は


ニセモノであることが


ハッキリと分かり


【自分】という意識が


消えて無くなったのを


知りました。






在るのは


1つとしての“私”でした。





とても

不思議な感覚です。




【自分自身を知りたくて】

【自分自身を見付けたくて】

命をかけて

毎日を過ごすことを

積み重ねた結果...




【自分】とは“存在しなかった”と

そんな答えが出てこようとは

想像もしていませんでした。





何度でも

言います。



在るのは

本来

1つとしてのエネルギー(命)だけ。

このエネルギーを

人によって

しっくりくる呼び名で

表現してきただけに過ぎないこと。


エネルギーは

光と呼ばれたり

愛と呼ばれたり、

神様と呼ばれたり、

八百万の神と呼ばれたり...







個としての自分は無い、と

実感して

改めて

“なるほど”と

思います。



誰かを嫌いと思うならば

とても心地悪いし、

何かに不平不満を言うと

嫌な気分になるのは、

 全てが1つだから

思ったこと

言ったことは

そのまんまエネルギーとして

自分自身に放っているから...。








求めて

求めて

求め続けて



求めたものは

見付かるだろう。



探して

探して

探し続けて




探したものは

見付かるだろう。




その言葉の通りだった...



深い感謝の想いに

包まれました。






「自分とは何か」を

求め続けて、

誰に訊いても

答えられなくて、

ずっと

独りで

見付け続けて...




上江洲義秀先生と出逢い、









本で読んだり

話を聴いたりすることによる

知的情報のインプットではなく、

私の内側からの実感として

「“自分”は無かった」と

やっと...

やっと

答えに辿り着きました。


そして

今では

思考も感情も

“私”ではない、と

ハッキリと

納得し、




この世界を

私は


観ています。




熊本県合志市野々島

なぎの木整体

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