畑に行く途中の
歩道には
毎日のように
ゴミが落ちています。
ゴミを観ていて、
かなり前は
私は
ゴミを棄てる人を
「けしからん 」と
心内で
裁いていました。
月日が経ち
やがて
ゴミを棄てる人を
「可哀想な人」だと
思うようになっていきました。
ゴミを棄てることによって
その後
ゴミを見る人が
どんな想いになるのかを
考えることができない
可哀想な人だと
思いました。
また
ゴミとして
放置されたものが
やがては
どうなっていくのかを
イメージできない
可哀想な人だと
思っていました。
さらに
月日が流れました。
私は
ゴミを観て
ゴミを観る私自身が
心内で
何を想い
どう感じ
さらには
どのような行いをしていくのか、を
教えてくれるゴミの姿をまとった
師だと思うようになりました。
さらに
月日は流れました。
畑の帰り道に
ゴミを拾いながら
帰宅する途中、
ゴミは
ゴミを棄てた行為者の
生き方の現れだ、と
思いました。
想いが無ければ
“行為”はありません。
さらに
“自分を知ること”を
追究するならば、
絶対に
ゴミを棄てることは
しません。
なぜならば、
自分とは
素晴らしい
美しい
素敵な存在である、と
日々
日々
想いを正し、
言葉を正し、
行いを正し、
その積み重ねをしながら
毎日を過ごす人に
「ゴミをポイ捨て」する想いさえ
沸いてくるはずはありません。
棄てられている
ゴミを観ていたら、
たくさんの気付きが
生まれてきます。
“想い”があるから
その想いの通りに
言葉が発っせられ
その想いの通りに
行いが現れて
この世界を
創造していることを...
改めて
思いました。
全て
自分自身の内側にあるモノしか
表現として出てこないのです。
そして
着飾った言葉も
取り繕った行いも
観る人が観たら、
すぐに
バレてしまいます。
思います。
【せめて
自分自身が出したゴミくらい
ゴミ箱などに棄てる、
という
責任持った行いを
一人一人が
できるならば、
この世界は
本当に
美しい世界に
変わっていく】と。
大人のそんな姿を
曇り無い目で
子ども達は
静かに
観ているのです。
今
大人に対して
在り方・生き方が
問われている、と
思います。
“自分を知ること”
今ほど
このことの必要性が
高まっているときは無い、と
私は
実感しています。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
Moe