8月を前に


公共施設のある場所に


展示物がありました。





それは


広島の原爆や


ビキニ環礁沖で被爆した


日本人の遺族などの


写真でした。







その写真を見て


先日行った


広島を思い出しました。





展示写真の横にあった

文章に

私は

“何か”を

感じました。



その文章に

“何が”あったのでしょうか。








その文章には

“辛い”

“悲しい”

“苦しい”

“こんな想いをするのは

私たちで最後にして欲しい。”





それは

【感情】による

表現でした。



その時に

私は

思い出しました。



6月下旬に

中国の方から

言われた一言を...。



「日本人は

 “戦争”や“平和”や“歴史”について

 表現するとき

 いつも

 【被害者の顔をする】」


と言われたことを...。





確かに

原爆や水爆による被害について

それを被った方は

私には

想像を絶する想いをされました。




私が

小さかった頃

夏のこの時期に繰り返される

“戦争”と“平和”は

とてもインパクトが強く

毎年のように

辛く悲しい気持ちになり

時には

涙していました。





じゃあ

涙を流して


この世界は

本当に

【平和】が

実現したのか??





答えは

NO.


だとするならば、

“情による表現”で

平和を築くことは

不可能だと

言うことです。



“被害者の顔をする”限りは

絶対に

加害者に対する

怒りや恐怖などの想いを

内側に宿しています。


そんな想いを持ったままで

どうして

平和なんて

構築できるのでしょうか。




さらに

思い出したことがありました。




夏目漱石の本に

こうあります。



【知に働けば

 角が立つ。

 情に棹させば

 流される。

 とかく

 人の世は

 生きづらい】と。





理論理屈で

頭でっかちに

相手を

論破しようとしたら

口論になるし、



かといって

感情に共してばかりいては

相手の情に流されてしまって

解決には結びつかない...。







見せ方というものが

あります。

それは

単に

写真や絵や文章を

掲げて

来場者に見て貰うのではなく、



魅せ方を創造するなら

単に

“感情に訴える”のではなく、

自己の内側と対峙できるような

そんな構成を以て

展示するとき、

“見る”ではなく

“観る”となり

自己の生き方にまで

影響していく...



私は

そう思ったんです。




【国が】とか

【マスコミが】とか

【組織が】とか

周りの誰かではなく

いつも

【自分自身はどうなのか】と

しっかりと

自分自身の在り方や生き方を

見つめて

改善する努力をするならば、

“国”とか

“マスコミ”とか

“組織”の情報に

惑わされることは

減っていくように思います。







平和は

8月のみ

感じるのではなく、




平和は

常に

自分と向き合い

改善していく

日々の努力の積み重ねによって

実現していく、

私は

そう確信しています。




熊本県合志市野々島

なぎの木整体

Moe