広島にいます。
“平和の道”
広島は
今
緑や花に満ちて
水が流れ
とても美しい世界です。
ここで
起こったことを
“知らなければ”
広島は
とても賑やかで
人が溢れ
物に溢れ
“快楽だけ”に
飲み込まれるかもしれません。
私は
広島平和記念資料館へ
足を運びました。
“私”を観たかったから、です。
かつて
1度だけ
原爆資料館へ
行ったことがありました。
もう
25年以上前の話です。
私は
その後も
長崎の原爆資料館へと
行ったことがあります。
その時の私は
原爆資料館が
とても怖くて、
また
原爆資料館へ来ていた
外国の方が
ガムを噛みながら
展示物を見たり
時に
笑い声を出したりする姿に触れたとき
とても腹が立ったことがありました。
私の中に
海外の方に対する
怒りや裁きの気持ちがあったのです。
今回
広島平和記念資料館へ
行こうとする前に
私は
私の内側を観ました。
かつて
原爆資料館へ行った時のような
“怖れ”はありませんでした。
真正面から観てみよう...
そう思いました。
私は
この画像を見たとき
釘付けになりました。
気付くと
私の目からは
涙が
溢れていました。
悲しいからでは
ありません。
なんて愚かなんだろうか。
あと何回
繰り返したら
人間は
自分自身と向き合い
真実の平和へと
意識の全てが向くのだろうか...
その想いは
“誰か”に対してでは
ないのです。
その想いは
“どこかの国”に対してでは
ないのです。
その想いは
私自身に対してのもの...。
“平和の道”
平和の道を
歩もうとするとき
その歩みは
一気に飛び越えていくことは
叶いません。
1歩1歩
歩みを重ねていくしか
ありません。
“生きる”
なぜ
広島で
あのような惨劇が
起こってしまったのでしょうか。
それは
間違いなく
人間が
自分自身に対して
自分自身を知ろうともせず、
余りにも無知で
そして
欲に満ちて
傲慢だから、だと
私は
思います。
また
これは
過去の話では
ありません。
今でも
全く同じ事が
この世界で
起こっています。
それを
知ろうともしない無関心は
最大の罪だ、と
私は
思います。
戦争は
一瞬に
全てを壊しました。
一瞬に
親を亡くし
残された子ども達の涙を
大人である私たちは
あと
何回見なければならないのでしょうか。
今
変わらなければならないのは
私たち
大人の意識の在り方。
今
広島平和記念公園前では
8月6日の
平和記念式典に向けて
会場設営が
行われていましたが、
8月初旬の式典だけで
本当の平和が構築されるなら
この世界は
とうの昔に
平和になっていたことでしょう。
私は
中国の方に言われました。
「日本は
平和や 戦争について話すとき
いつも
被害者の顔をする」と。
この一言は
私に
深いテーマとして
与えられています。
“自分を知ること”を
“怖い”と
私に言った人が居ました。
私は
断言します。
“自分自身を知ろうともしないで
生きていくことのほうが
遥かに怖ろしい”と。
真正面から
自分自身を見つめようと
努力し続けるならば、
必ず
この世界は
美しい人の輝きという花が咲き誇り
必ず
この世界は
真実の平和が構築されていく...
私は
それを
確信しています。
平和の道。
この道を歩む仲間が
私の周りには
国を超えて
どんどんと
繋がり逢って行っています。
“生きる”
今
このことが
一人一人に
問われている...
改めて
そう思っています。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
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