次男坊と


話をしました。


鬼滅の刃について


話していました。



次男坊言います。


「上弦の壱の鬼はね


 双子の弟を憎んで憎んで


 だから


 鬼になったら


 人間の時の記憶を無くすけど


 鬼になっても


 弟のことを覚えていたんだよ。


 だけど


 上弦の壱の鬼は


 最後の最期に


 気付くんだ。


 憎んで嫌っていたのではなく、


 弟のように生きたかったんだ、と。


 弟のようになりたかったんだ、と。


 でも、


 そうなれなかったから


 悔しくて辛くて悲しくて


 鬼になったんだ。


 だけど、


 それに気付いたとき


 上弦の壱の鬼は


 消えていったんだよね。」







子ども達との

何気ない会話の中に

生きていく上での

大切なメッセージが

たくさん含まれています。




他にも

鬼滅の刃には

こんな言葉もありました。




「君を怖れて離れていく人は

 本当は

 君を羨ましいと思い

 妬んでいるにすぎないんだよ。」






だから

「大嫌い」と言われたら

その言葉に

悲しむ必要は

全くありません。



現に

私自身も

「大嫌い」と

言われたことがあります。



言われたことがありますが、

全く心は揺らぎませんでした。



むしろ

そう表現する方の苦しみや悲しみが

和らぎますように...

そう思いました。








“自分を観ること”は

怖いことなのでしょうか。


“自分を知ること”は

怖いことなのでしょうか。




鬼滅の刃に出てくる

鬼達は

消えていく前に

人間だった頃の

優しさや温かさや愛を思い出し

消えていくのです。

“自分を知って”

消えていきます。







“自分を知る”とは

自分自身の内側から

目を逸らすこと無く、

また

自分にとって

都合の良い自分自身を

飾り立てることもせず、

強い意志を持って

本来在るべき

自分自身の内側の

光とか愛とかを

実感できるまで

磨き抜くことではないでしょうか。






進み行く道は

決して

楽な道ではないから

だからこそ

こんな風に

強さを現すような

そんな存在が

私自身には

必要なんだな、と

いつもいつも思います。



熊本県合志市野々島

なぎの木整体

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