昔、
心理学を
学んでいた時
その時の講師が
「自分探しをし続ける人は
玉葱の皮を剝くように
自分はどこだ、どこだ、と
こうじゃない、ああでもない、と
1枚、1枚取り払っていった先に
結局は何も見付からない。
何も分からない。」
そんなニュアンスのことを言われ、
不思議と
そのことが記憶に残っていました。
私が
「生まれてきた目的」
「生きている意味」
「自分とは何か」の答えを
ずっとずっと
求め続ける中で...
“自分”
自らを分けるものは
何も無かった...と
観じました。
静かに静かに静かに
ただただ静かに
ゆっくり深く明想し続けたら、
その集中の度合いと
強い意志と忍耐と努力に応じて
確かに確実に
観じることができました。
【“自分”というものは
何も無かった。
“自分”という考え方こそが
全ての悩みの原因。
何も無い。
何も無い。
何も無い...。】
心理学の講師が言った
「自分探しをし続ける人は
玉葱の皮を剝くように
自分はどこだ、どこだ、と
こうじゃない、ああでもない、と
1枚、1枚取り払っていった先に
結局は何も見付からない。
何も分からない。」
これはある意味
その通りでした。
私が
苦しかった時に
散々やって来た
ビジョンボードや
易占いや
数秘、
マヤ暦、
カラーセラピー、
気功、
レイキ、
トゥリーディング、
過去生療法、
心理学の様々な技法、
その他のスピリチュアルワークなどなどは
精神的にゆとりあり
元気なときには
それもできましたが、
トイレにさえ自力で行けない、
食事も摂れない、
文字さえ読めない、
寝たきりの状態にまで
精神的に追い込まれた人間には
到底無理な話でした。
何も“自分”について
分かりませんでした。
しかし、
私は
そんな状態にまで
追い込まれても
“自分”を追究することを
諦めなかったんです。
想いを正し、
言葉を正し、
行いを正し、
その“正しい”の判断基準を
【神様】に置き
“神様ならばそう想うのか”
“神様ならばそう言うのか”
“神様ならばそう行うのか”を
意識し続けました。
それを徹底して意識し
自分自身を振り返り、
改善しています。
そんな時間を経てきて
心理学の講師が言った
「自分探しをし続ける人は
玉葱の皮を剝くように
自分はどこだ、どこだ、と
こうじゃない、ああでもない、と
1枚、1枚取り払っていった先に
結局は何も見付からない。
何も分からない。」
これは
間違いだった、と
私は
分かりました。
玉葱の皮を剝くように
自分自身の思いのクセ、
観念概念を捨て去っていき、
どんどんどんどん
捨て去っていき...
何も無いところに答えがある、と
観じられる喜びは
体験した人にしか
分かりません。
それでも
まだまだ入り口のように思えたり、
入り口にさえ来ていないように思えたり、
だけど、
とても感謝に充たされ
幸せだと思える今があることが
奇跡だと思うのです。
自分とは
“ 自らを分けるもの ”
ではなく、
“ 自ら分かろうとすること ”
ではないか、と
今
私は
そう解釈しています。
文字とは
言葉とは
同じ表記でありながらも
意識の違いで
解釈が180°も違ってくるから...
ひたすら
ひたすらに
自分自身を改善することが
大切だと思っています。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
MOE



