人に迎合する生き方が
できませんでした、ずっと。
己を偽り
“みんな”から好かれようなんて
そんなことを
思っても、
そんなことできない、と
ずっと思っていました。
心に無いことは
お世辞でも言えなかったし、
逆に
己が信じたなら
相手がどんな肩書きがあっても
真正面から
伝えていきました。
それが
例え
校長であろうが、
教育委員会であろうが、
私は
自分の意見を
ハッキリと
伝えていました。
昔、
確か
小2くらいだった時、
3歳くらいの弟が
腕白な男の子に
泣かされていた時も
私は
弟を守りたい一心で
その場に駆けていき、
逆に
私が
腕白な男の子に泣かされ
泣いていた弟は泣き止み
私は、
弟に手を引かれて
帰宅したこともありました。
中学の時には
いじめにあっていた女の子をかばい
いじめていた女子に強く言い放ち、
その後も
私は
相も変わらず
誰かに迎合することなく
今に至っています。
だから
【自分を観ること】を
追究することから
目を逸らそうとする人は
私の表現に対して
とても
反発します。
怒り、嫌悪します。
現に
高校時代の友人だった人も
離れていきました。
それでも
私は
情による結びつきでは無く、
ひたすら
私を創造した主を
求め続けました。
神様は試しますよ...
そう言われたことがありました。
愛の法則・慈悲の法則を歩もうとするとき
様々な試練や困難が
必ずやって来る、と。
やって来た時に
逃げるならば
そこで終わりになるけれども、
それを耐え抜き
信じ抜いて
進もうとする意思が
神様によって
汲み取られたならば
今度は
後押しとなって
道を切り拓いてくれる、と...。
そんな生き方を
してきていました、ずっと。
たぶん
これからも
そう生きていくのでしょう。
道は1つきり。
道は独りきり。
ひたすら
自分自身を磨いていくだけ...
とても
孤独で静かな世界。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
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