以前


訊いたことが


ありました。




「明想って


 どのようにしたら


 よいのか」と。




私は


明想が


苦手でした。



だから


やり方を知りたい、


そう思いました。




学べば学ぶほど


それまで


自分自身がやっていた


明想が


間違っていることに


気付いていきました。




自分自身を


改善することもしないで


明想したとしても


それは


単に


自分自身が創り出した


都合の良い映像にしか過ぎない、と


思うようになっていきました。




だから


明想について


努力している方に


訊きました。




ある方は


言いました。


「睡魔に襲われそうになったら


 自分自身の太ももをつねって


 太ももにはアザがいくつも


 できるくらいに


 明想していました。」と。




また


ある方は


言いました。


「寒い真冬に


 睡魔に負けないように


 ヨガマットを


 ベランダに敷き


 そこで


 明想していました。」と。





努力って


こういうことなんだ、と


思いました。


私は


明想が


あまり得意ではなく


苦しみから解放されたら


明想しなく無くなる日が来る、と


勘違いしていました。


楽ができる、と


勘違いしていました。





明想は


日常生活において


どれだけ


想いを正して


言葉を正して


行いを正す実践を


誠心誠意取り組まなければ


全く意味を為さないどころか


逆になって


自分自身の誤った意識を


増幅させてしまうことを


私は


体験しています。




間違った努力だった、と


思います。




明想は


想いを正し


言葉を改善し


行いを美しく為すことと


二足のわらじのように


バランスを取らなければ


ならなかったのです。



それを


正しい努力ということを


私は


体験から


学んでいきました。



そして


日常生活の努力に応じて


明想にも変化を感じるようになりました。







私が


努力してきたこと、


そして


今も


努力すること。



それは


私自身の意識の在り方を


 いつもいつも


注意深く見つめ続け


一瞬でも


【神様ならば本当にそう想うのか】


という基準に合致しなかったら


改善することです。




判断基準を


いつもいつも


【神様ならば本当にそう想うのか】


そこに置くだけです。




苦しむことを


生きている実感と


勘違いする人がいます。



身体に痛みを与えることを


あえて


自分自身に課して


生きている実感と


勘違いする人がいます。





そうではなかったのです。





努力とは


本来


喜びで在り


幸せで在る、ということを



私は


感じているのです。







熊本県合志市野々島


なぎの木整体


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