前回のブログで
私に
文字や言葉の
本当の使い方や尊さを
教えてくれたのは
障がいのある子ども達だ、と
表現しました。
私は
日常生活で
ブログの表現として
過去を振り返ることはしますが、
ブログで文字を綴るとき以外は
【今を観る】ようにしているので、
目の前のことに
必死なんです。
畑へ行けば
やることは沢山在りますし、
帰宅してからも
作業着を自分で作ったり
料理をしたり
瞬間瞬間に
意識を留め置くようにするため
不平不満・愚痴を言う時間は
全くないのです。
なぜならば
この世界が
愛の法則・慈悲の法則が
働いていると
納得しているからです。
障がいのある子ども達と
学生時代から
共に過ごしていた私は
言葉を使いたくても
文字を使いたくても
知的な理由や
身体的な理由から
言葉や文字を使えない子ども達を
数え切れないくらいに
観てきたのです。
一方で、
社会の中では、
うわさ話や
誰かや何かの
不平不満・愚痴
あるいは
悲観、苦しみなどを
表現している人を
数え切れないくらいに
見てきました。
その時に私は
止めて貰えませんか!!!
この言葉を
うわさ話や
誰かや何かの
不平不満・愚痴
あるいは
悲観、苦しみなどを
表現している人に対して
声を大にして言いたい衝動に
何度も何度も駆られました。
それを
ギリギリのところで
押さえてきていたわけです。
私は
子ども達の言葉や文字を
耳にしたかった...
目にしたかった...
しかし
それが叶わないから
必死になって
神経を集中させて
子ども達が
何を伝えようとしているのかを
感じようとしていました。
少しでも
正しく感じられるならば、
より
その子ども達に適した教育を
行うことができるから...
そう信じていたからです。
にもかかわらず
言葉や文字を
思うように使える人は
美しく
素晴らしく
キレイに使おうとさえ思いもせず
思いたい放題、
言いたい放題に対して
止めて貰えませんか!!!
言いたかったあの頃。
考え方は
今でも
変わらないかもしれませんが、
感情は
大きく変わりました。
感情に支配されなくなりました。
そして
うわさ話や
誰かや何かの
不平不満・愚痴
あるいは
悲観、苦しみなどを
表現している人は...
そのような
行いを通して
学んでいるのだ、と
知りました。
だから
怒りの感情もありません。
裁くこともしません。
私は
ひたすらに
【自分自身を磨くことだけに専念する】。
そう決めたのです。
目の前に
「苦しい。苦しい。苦しい。」と
連呼する人がいたとしても、
私は
静かに観ます。
本当に
苦しみから
脱却したいならば
いつまでもいつまでも
同じ言葉を使うはずも無いことを
私は
自分自身の体験から
知っています。
自分自身の想いを改善します。
自分自身の言葉を改善します。
自分自身の行いを改善します。
ひたすら
ひたすらに
やり続け、
そして
朝晩
静かに
明想します。
私がやり続けたのは
これだけです。
そして
まだまだ
道半ばであることも
知っています。
しかし
自分自身が
人生のどん底だと
感じていた時からしたら
奇跡のような幸せを
今
生きています。
生きたい。生きたい。生きたい。
ただ
肉体が動くだけを
【生きる】とは
言わないことの証となる言葉。
【生きる】とは
意識を美しく 素晴らしく
言葉を美しく 素晴らしく
行いを美しく 素晴らしく
そして
自分自身を見つめ
いつも改善し、
他者のために
喜んで
お役に立てる自分自身を
創造することだ、と
今の私は
そう解釈しています。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
MOE