私が


絶対的に


やっていたこと。




苦しいときほど


絶対に


文字や言葉で


苦しさを


ぶちまけないようにしたことでした。


そこに至までは、


散々に


苦しさを


大声出して


吐き出していました。








ブログという


公の多数者に


目が触れるならば


なおのこと


ブログ上に


自分自身の苦しみに繫がる文字を


苦しみの最中に


表現することだけはしませんでした。



自宅で


寝たきりだったときに


あまりの苦しみに


大きな声で


何度も何度も


叫んだこともありましたが、


そんなことをしても


苦しみが軽くなるどころか


子ども達を悲しませ


泣かせてしまったことも


ありました。






そんな体験から


苦しいときほど


その最中に


自分自身を徹底して見つめることに


焦点を当てていきました。



一体


自分自身の中の


どんな想い方のクセや


気付きもしない観念概念が


私を縛り付け苦しめているのか、


分からないからこそ


極限状態の時ほど


私は


強く強く強く


【私は光です】


【私は愛です】と


思い続けていきました。


これが


【 自分自身を徹底して見つめること 】


の意味です。





苦しいときほど


今を見つめられず


過去を見ては


誰かを責めたり


誰かを裁いたり


自分自身が罪悪感に囚われたり、




未来を見ては


ハッキリとした理由も無いのに


不安になったり


驚怖に感じたり。



それの繰り返しで


今という


大切な時間は


どんどん流れ去っていっていました。





特に


過去は


強烈で...




よく


インナーチャイルドを癒やすとか


言われていた(言われている?)けど、


いつまでも


いつまでも


「母が〇〇してくれなかったから」


「母が〇〇したから」とか


幾つになっても


そこに囚われて


自分自身の至らなさが


自分自身を苦しめている


結果の現れにしか過ぎないのに


ここにきて


母親を責め裁き、悲しませ...


「実は、あの時...」と


母親に


伝えたところで


母親を悲しませることをしているだけで


実は


誰も報われない...



それどころか


自分自身に対する


嫌悪感は


さらに


深まっていってしまったことを...




私は


心理学を学んでいた頃に


体験しました。




もう


10年以上も前の話です。




自分自身と


向き合うことをしない人は


いつも


自分自身の苦しみを


誰かや何かのせいにして


簡単に


苦しみを言葉によって周りに放ち


その重たいエネルギーを


拡げてしまっているのです。





だから...





苦しいときほど


自分自身を見つめ


苦しいときほど


自分自身を改善していく方向に


苦しいエネルギーの全てを注ぐのです。



苦しみは苦しみでは無く


自分自身を改善し


想い方のクセや


観念概念を払拭し


本来の自分自身へと


立ち返っていくきっかけにしか過ぎず


見方を変えるなら


苦しみは


神様からの素晴らしい贈り物だと


追究していくうちに


感じ方が変わっていくでしょう。




磨いて


磨いて


磨いて


磨いて


磨いて...




その先に


どんな世界が


目に映るのかは、


努力次第だと


私は


解釈し、


今日も


一瞬一瞬を


感謝しながら


過ごします。






熊本県合志市野々島


なぎの木整体


MOE