交通事故


うつ病


仕事を辞めたこと


両親との確執...




 生きてきて起こった


いろんな出来事は




その時には


絶対に気付くことができなかった


深い意味があることに


私は


気付きました。




例えば

うつ病。


というより

うつ的な心情。


私は

その状況を

病院にも行かず

薬も飲まず


ただ

ひたすらに

その時間を

耐えていました。


これまで

何回か

その状況を体験し、

その度に

病院に通いましたが、

薬への依存と

薬を断ってからを想像して

今より酷くなったら怖いという思いがあり

状況は

生かさず殺さずという感じだったことを

既に私は知っていたから...

だから

3年前の私は

病院には

行かなかったのです。





私は

うつ的な心情を

徹底して

味わい尽くしました。

【自分自身を知る】とは

なんて苦しいんだ、と

そう思っていました。

罪悪感、不安、後悔...

そんなものばかりが

内側から出てくるし、

連日

そればっかりで

ついには

【生きていてごめんなさい】

となっていきました。





ところが

そこまで

体験して

それでも

【自分自身を知る】を

やり抜いていったとき

【自分自身】というものの解釈を

私は

間違っていたことに

気付いてしまったのです。


気付くまで

私は

【自分自身】を

見続けていました。




気付くまで

気付くまで。


想いを正し

言葉を正し

行いを正していく...




正していく、とは

判断基準を

いつもいつも

“神様ならどう想うのか”

“神様ならどう話すのか”

“神様ならどう行うのか”と

意識していた、という意味です。





私の

うつ的な心情を

今の私の状況にまで

至らしめたのは

薬では

絶対に不可能です。


今の私は

うつ的な心情になる前の私とは

全く別人です。




私は


何か問題やトラブルが無いことが

幸せでは無く、




仮に

問題やトラブルがあったとしても

それは

私自身を強く賢く優しくするために

起こったことであり、

素晴らしい神様からの贈り物だと

確信しているので、

揺らぐこと無い心で

自分自身の中にある智慧を使って

問題やトラブルを解決していけるので

そのプロセスさえも

幸せであると感じるのです。



誰かから何を言われても

誰かから何をされても



私は

私自身を【知っているから】

私は

例え

独りでも

全く

安心していられるのです。



そんな心情で生きていくことこそ

私が

小さい頃から

ずっと探していた【答え】でした。



さらに

そんな心情で生きていくと

優しさや智慧を

ご縁ある方々と

共有したいと

自然に想えてくるのです。



そうすると

不思議と人が

集まってくるのです。




気付けば

私は

中国の方から

晩ご飯に招待されていました。






気付けば

私は

琉球古民家で

コーヒーを戴いていました。




いずれも

私が

望んだことではありません。



私は

ひたすらに

【自分自身を知ること】だけを

追究する生き方を

貫いているだけです。




そして

【自分自身を知ること】に

終わりは無く

ひたすら

努力を積み重ね続け

その努力ができる今があることこそが

幸せだと

感じるのです。



体験の全ては

智慧となり

智慧は生かされ

他者を幸せにする

素晴らしい宝であったのです。




熊本県合志市野々島

なぎの木整体

MOE