“死”とは


いわゆる葬儀で見る


動かなくなった肉体のことを


現す言葉だと


思っていました。




ずっと...









ところが、

私は

動く肉体がありながら

【死】を感じました。




それは、

人生どん底だと感じていた頃、

食欲が無くなり

お金に対する執着もなくなり、

社会的な肩書きに対する執着もなくなり、

歩くことさえままならない私は

感情も麻痺して、

思考もできなくなって、

本さえも読むことができなかった...



そんな状況にまで

追い込まれ最期に残ったのが、

聴覚でした。




あの時...

何もできなかった人生どん底の時、

文字がぼやけ

集中力も無かった私に

夫は

“心身の神癒”を

何度も何度も

読み聞かせしてくれていました。

読書ができませんでした。

身体を横にして、

目を閉じていても

耳から聴こえる

“心身の神癒”は

とても心地よかったのを

今でも覚えています。

もちろん

内容は

理解できては

いませんでした。

しかし、

聴いていて

どこか安心感があり、

私は

夫の状況が許す限り

読んで貰っていました。






あの時から

2年半が過ぎて...

最近になって

ふと気付きました。




義妹が

以前

看護師をしていましたが、

「亡くなる直前まで

 機能するのは

 聴覚です。

 最期の最期まで

 耳から聴こえる音や言葉は

 認識できるのです。」

こんな内容を

話してくれたことがあったことを

思い出した時、



私は

「自分は1度死んでいたこと」に

気付きました。






聴覚だけが

機能していたあの頃。



個我としてのMOEが

死んだのです。

偽我としてのMOEが

死んだのです。




それは

強烈な【死】でした。

苦しみ

もがきあがき

息もできず

どうにもこうにも

しようが無かったのです。

ただ肉体が在るだけ...

それだけでした。

何のために生きているのか分からず、

存在価値も感じられず

「生きていてごめんなさい」と

いつも思っていました。






あの時

確かに

個我のMOEは

死にました。








それから

必死になって

想いを正し

言葉を正し

行いを正し、

1日1日を積み重ね、

明想をし...






泣き言を言わず

ただただ

自分を改善することだけを

実践し続け

【本当の私】を追究していく過程で、




起こる事象の全ては

必然として

起こっていることが

分かってきたのです。





【死】とは

自分自身を追究することなく

外側に起こる事象に振り回され、

感情的にしか

物事を解釈できずに

肉体的な死を怖れながら

日々を過ごす意識の在り方である...

今の私は

そう解釈しています。



そして、

【死】をくぐり抜けて

“本当の自分”を

本気になって

求め続けていく中で

内側から

光り輝く存在が

生まれ出てくること...

【蘇り】が始まるのではないか、と


感じ始めてます。




熊本県合志市野々島

なぎの木整体

MOE