沖縄に住んでいた


幼少期に


海で溺れました。


私が


溺れているのに


気付かない両親は


浜辺で


何やら


話をしているのが


波の隙間から


見えていたのを


ハッキリと


覚えています。


波にさらわれたのか


足が底に付かなくて


とにかく


必死になって


もがきあがくのですが




もがきあがくほど


余計に


海水が口や鼻に入り込み


息もできずに


苦しみだけがありました。







もうダメだ...





あの時


そう思いました。





その瞬間


私を助けてくれたのは


アメリカ人でした。





それから ずっと

私は

カナヅチでした。

泳ぐのが

とても怖かったです。

でも

教師になりたかった私には

教員採用試験があり

必ず

水泳は

必須項目としてあったのです。

25mを

足を付かずに

泳ぎ切ること。


私は

“怖い”なんて

言っていられませんでした。



そして

スイミングスクールに通い

なんとか

泳げるようになりました。





水に対する恐怖心は

なかなか消えはしませんでしたが、

与論島の海の美しさは

恐怖心よりも

「海に潜ったらどんな魚がいるんだろう」

という好奇心の方を

強くしてくれました。




スキューバダイビングも

シュノーケルも

教えてくれました。



力を入れるほどに

身体は沈んでいくことを。



波に身をゆだね

深い呼吸をし

海と一体になり

自分自身が魚であるかのように

泳いでいるときが...

息のことも忘れて

恐怖心さえもなく

美しさの中に居たことを。






生きていく中で体験した

人生どん底の苦しみも

全く同じでした。


「こうなりたい」

「ああしなきゃ」

「これはダメ」

「こうあるべき」

「あの人が悪い」

「あれさえなければ」...

頭の中で

もがきあがくほど苦しみは

さらに増していくのでした。




自分で自分自身を責めたり、

誰かを責めたり、

あるいは

悲しみに浸ったり

過去や未来ばかりに思いが行ったり...



それこそが

私の一番の

もがきあがきだったこと。



それを

散々体験したから







もう止めたんです。






止めました。




そこには

【幸せ】は無かったから。




だから

私は

頭で思考することを

しません。





1番幸せなことは

何があっても

私にとって

【問題や悩みや悲しみになることは

 無くなった】と

そう思えるように変化してきていること。




何か

出来事がないわけでは

ありませんが、

私は

どんな出来事も

私が学ぶために必要として

目の前に現れたこと、と

解釈するので

感情に主導権を

握られて

苦しまないのです。



それは

私が

自死しようとするほどにまで

追い詰められながらも

【自分を知ること】から

絶対に絶対に

逃げずに

見つめ続け

取り組み続けてきたからでした。



想いは正しいのか、

言葉は正しいのか、

行いは正しいのか...



いつも

いつも

自分自身の在り方を

今でも

意識して注視しています。


そして

明想も欠かしません。



静かな時間の中に身を置き

自分自身を見つめるのです。





本気でやり続けたら

必ず

本気に見合う生き方が

現実のものになっていく...



私は

体験者として

そう断言します。



そして

【自分自身を知ることに終わりは無い】と

さらなる

努力の必要も感じています。





熊本県合志市野々島

なぎの木整体

MOE