あなたと私は違うのか?
特別支援学校の教師時代に
校外学習で
児童を引率すると
傍から見ても
明らかに
【障がいがある子ども達】の姿を見て
年配の方は
「かわいそうに」
そう言った言葉を
数え切れないくらいに
耳にしました。
また
【障がいがある人】に対して
「怖い」という言葉を
数え切れないくらいに
耳にしました。
【かわいそう】ですか?
【怖い】ですか?
あなたは
一体誰ですか?
障がいとは
何ですか?
私は
ずっとずっと
分からなかったのです。
障がい児や障がいに対して
【かわいそうに】
という人の気持ちも
【怖い】
という人の気持ちも...。
それは
きっと
幼少期から
数え切れないくらいに転校し、
珍しい転校生は
いつも好奇の目にさらされたからかも
しれません。
その好奇の目は
決して
心地よいものでは
ありませんでした。
私は
障がい児や障がい者を
【強く勇気ある人】
【偉大な教え人】だと
思っています。
私たちと
何一つ変わりません、
命は全く同じです。
では
苦しむ人については
どうでしょうか。
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苦しいです息ができません。
毎日毎日行いを改めようと
頑張っているのですが、
思いのクセが入り込んできます。
マイナスのネガティブが
入り込んできます。
我慢できません。
もえさん助けて下さい。
苦しいよ、
辛くてどうしていいものか
わかりません。
どうか見捨てないでください。
一生懸命がんばっています。
入り込まないように、マイナスが。
息ができないよ。
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今
こう感じている方に
「そんな考え方が苦しめている」なんて
誰が言えるでしょうか。
【他人ごととして相手を見るとき
放たれる言葉は
恐ろしいほどに
冷たい言葉になる。
それが
無意識であればあるほど
その人の人間性が垣間見えてくる】
いわゆる
社会的な弱者に対する
想いや言葉や行いは
それがその人の
人の成りを現すことを
私は
学びました。
苦しむ人を目の前にして
“私が何かをしてあげたい”は
時に
優越感や傲慢さの表れであることも
多々あります。
しかし
苦しむ人を目の前にして
“助けたい”は
見返りを求めず
また
我が無く
自然に言葉や行いが
なされるならば
その言葉や行いは
きっと
苦しむ人を
癒やしていくのでしょう。
ガンジーのように...
ナイチンゲールのように...
マザーテレサのように...。
先ほどの
メッセージと
私の遺書は
全く違いはありません。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
お父さん
お母さんへ
こんな形で
気持ちを
最期に伝える形に
なってしまったこと
本当に
申し訳なく思います。
でも、
私は
今、
ようやく
安心しています。
頑張り続けた
43年でした。
私は
いつも
自分が頑張らないと価値がない、と
思ってきました。
今
生きる意味も分からなくなり、
子どもが居ながらも
生きること自体の苦しみは
余りにも強く
私は
ついに
このような状況へと
心が追い込まれました。
A(夫)は
何一つ悪くありません。
ここ数ヶ月
Aは
必死になって
私の命を守ろうとしてくれていました。
むしろ
1番の被害者です。
だから
どうかAを責めないで下さい。
教師を続けられず、
生きることも続けられず、
弱い私でごめんなさい。
葬儀はしないで下さい。
今までありがとう。
子ども達のサポート
お願いします。
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これだけの苦しみを体験したら
気付くんです。
苦しいから
死ぬ気で
【自分自身を知ろうと】
日々
取り組むと...
だんだんと
相手も私もないんだな...
全ては
気付き学び成長していくための
体験にしか過ぎないんだな、と。
そうすると
相手のために
何かを為すことは
【何一つ特別なことじゃない】と
実感として分かってくるのです。
至らなさも
もちろん
あるでしょう。
しかし
それさえも
道半ばにある者の
学びになります。
何もしなければ
傷つきはしませんが、
成長も
もちろんありません。
あなたと私は違うのか?
いいえ
個性としての違いはあっても
命の尊さとしては
何一つ変わりません。
そして
その命を
どれだけ感じて
この一瞬一瞬を
活きていけるのか、が
誰にとっても
何より大事なことだと
私は
今
強く思います。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
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