どれだけ苦しいからといって
叫ぼうが
泣こうが
もがいてあがいたとしても...
悩みや苦しみが
消えることは
ありませんでした。
それでも
苦しみから
解放されたかった私は
LINEで
何度も相談したことが
あったんですね。
そしたら
ハッキリ
言われたんです。
「毎回
“変わりたい”
“分かりました”
そう言いながら
しばらくしたら
また
同じ事を
思ったり
言ったりしています。
それこそが
想いのクセであって
それを
変えない限りは
何度やりとりしても
無駄です。」
【無駄です】
そう言われたんです...。
相手の大切な時間を
私のために使って貰いながらも
なかなか
変わることができなかった私への
最終通告のような言葉でした。
それから
私は
この方へ
LINEはしなくなりましたが、
その分
しっかりと
自分自身を見つめて
明想に取り組んでいきました。
また
想いを正し
言葉を正し
行いを正そうと
必死になって
取り組み続けました。
そんな月日を重ねて
気づいたことがありました。
自分自身の中に
依存心や甘えがある限り
頭で
どれだけ
【変わりたい】と思っても
いつまで経っても
【変われないこと】を。
できるか できないか
ではなくて
やるか やらないか
信じるか 信じないか
続けるか 途中で止めるか
違いは
それだけだったこと。
あの時
苦しみから
解放されたいと
思いながらも
何が
苦しみの原因になっていたのか
それから
目を背けながらも
「助けて。助けて。」
そう叫んでいた私...。
原因が
分からなければ
誰も
救いようも無かったんです。
でも...
私は
原因そのものを視たから
苦しみから
解放されたわけでも
無かった...
という
不思議な話。
一見
矛盾するようですが、
苦しみの渦中にある
適切に判断できない中で
苦しみの原因を把握するなんて
当時の私には
不可能でした。
だから
私は
死に物狂いで
ひたすらに
“私は愛です”
“私は光です”と
明想をし続けたんです。
周りの人が
頭がおかしいと思っても
何と言われたとしても
それを
気にするだけの余裕も無く
ひたすらに
神様を求めて
明想をし続けた時に...
私は
苦しみから
解放されました。
あれだけの苦しみを
取りさることを
人間がやるのは
到底
不可能です。
もがくこと
あがくこと
そのものが
“(個である)自分で何とかしよう”
という無知であり
傲慢であることを
私は
この時
初めて知りました。
泣いても変わりません。
泣く時間があるならば
私は
必死になって
明想をします。
ただ...
泣くことも
きっと
泣くことを通して
必要な学びをしていることも
また
事実だと
私は
解釈しています。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
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