かつて


私が


人生のどん底にいると


感じていた時に


何とか


楽になりたくて


あるヒーラーに


相談したんですね。



そのヒーラーから


色々と


言われたのですが、


その中でも


印象に残った言葉が


「暇があるから


 横になって


 苦しむことができるのよ。


 もしも


 本当にお金が無ければ


 今すぐにでも


 働いているはず。


 まだまだ


 余裕があるから


 寝ていられるのよ」


という内容でした。






当時の私は


寝たきりで


トイレにでさえ


這っていくような状況だったので、


この言葉は


あまりに冷たく


突き刺さるような言葉に感じ


2度と


この人には


相談するまい、


そう思いました。




この時ほど


【ヒーラー】という


言葉の在り方について


考えたことは


ありませんでした。







先日


“宝瓶宮福音書”という本を


読んだのです。




宗教を


全く学んでいない


全く知らない私が、


イエス・インマヌエルの


一生涯について


初めて


読んだ本でした。





その中で


こんな場面がありました。




イエスが


各国を歴訪しているとき


イエスの父が亡くなり


イエスの母は


悲しみでいっぱいとなり


イエスの帰郷を望みました。


しかし


イエスは


こう応えました。


「お母さん。


 お父さんは


 この世界にいるときに


 誰かに対して


 不正をするとか


 また


 誰かから非難されるとか


 一切無くて


 善良な人生を生きました。


 お父さんは幸せです。


 

 お母さん


 悲しみの涙は


 あなたを


 幸せにはしません。


 悲しみの涙は


 あなたを


 さらなる悲しみへと


 導くでしょう。


 悲しみは怠惰と変わりありません。


 さあ


 お母さん。


 あなたは


 今


 自分の周りにいる


 あなたの助けを必要とする人のために


 働いて下さい。


 愛として生きて下さい。


 あなたは


 必ずや


 幸せの意味が分かるでしょう。


 そして


 いつか


 私は


 金や銀以上の価値のある


 素晴らしいお土産を持って


 あなたの元へと


 帰るでしょう。」


 




相手を


おもんぱかった


なんて


美しい


温かみ溢れる


言葉なんだろう...


そう思いました。








私が言われた言葉と


イエスの母が言われた言葉との間には


計り知れない程の差があるように


感じます。








例え


どれだけ苦しくても







その苦しみは


単なる


苦しみで


終わることは無いように


思います。




苦しみは


私を強く


私を忍耐強く


私の意思の力を育み


私に勇気を与えてくれました。




そして


苦しみは


想い・言葉・行いの在り方が


いかに重要であるのかを


身を以て


教えてくれました。






苦しみから逃げれば


苦しみは


さらなる苦しみとして


私を追いかけてきましたが、




私が


苦しみと真正面から向き合い


毎日毎日を


徹底して


自分自身を整える努力を積み重ねていく時


苦しみは姿を変えて


知恵となりました。


笑顔となりました。


優しさとなりました。


光となりました。





「暇があるから


 寝ていられるのよ」



そうではなくて...






必要として


学ぶために


そのような状況を


体験していただけでした。





学ぶため...







もしも


私が


そんな体験を経ず


コロナ禍であっても


ヒーラーとして


邁進していたら


傲慢になり


欲で目がくらみ


あり得ないくらいに


冷たい人間になっていたでしょう...。






あの苦しみは


あの時の私には


必要だったのです。








そして


私は


徹底して


【自分を知る】をやり続け


今もなお


【自分を知る】ことを


追究していく中で


想いの在り方、


言葉の在り方、


行いの在り方が


如何に大切であるかを


実感しています。






熊本県合志市野々島


なぎの木整体


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