ある日
夫が
無意識に
ゴミ箱を
脚で蹴って
移動させている姿が
目に入りました。
その行為に対して
私の中で
“何か”が
引っかかりました。
以前の私なら
夫の姿を見て
自分自身の不快感から
「ゴミ箱を蹴らないでよ」
そう言っていたんです。
そして
大抵の場合
夫から
何かしらの言い分が返ってきて
夫の言い分に
私は
またまた納得いかず
口論になっていくことを
数え切れないくらいに
体験してきました。
【私の中】で
“何か”が
引っかかりました。
【私の中で】なんですよね...。
【私の中】
キーワードです。
私は
夫の行為に対して
何一つ
言葉にして
伝えることを
しませんでした。
かなり前...
上江洲義秀先生が
お話の中で
「私は
脚で靴を揃えたりしません。
脚は脚の役割が
手は手の役割があることを
私は知っています。
靴を揃えるときは
想いを込めて
手で靴を揃えます。」
そう言われたんです。
その話を聞いた直後の夫は
それから
しばらくは意識して
手でモノに触れて移動させていました。
が
それも時間経過と共に
元に戻っていく姿を
私は
既に見ていたのです。
知識(情報)だけでは
人は
変わらないことを
私は
学びました。
”無くて七癖”
という諺があります。
自分では意識しなくても
周りから見たら
七つの悪癖があると
言われるように
七という数字は
あくまでも
たとえで
自分自身では
分からないほど悪癖は沢山ある、と
私は
解釈しました。
「夫の行為は私に
何を教えてくれているのか」
夫の行為を見た日から
私は
ずっと
私の想い
私の言葉
私の行為を
見続けていきました。
!!!
在ったんです...。
ゴミ箱を蹴って
ゴミ箱を場所移動させることは
していないけれども、
私は
コンロの下にある
調味料の入った
引き出しを閉じるときに
その重さから
私は
自分自身の膝を使って
引き出しを押していたことを。
脚を使って
道具を扱っていたことを...。
その時に
気付きました。
相手に対して
“何か”が
引っかかるならば
相手を変えるのではなく
自分自身を変えていく
必要があることを...。
もしも
自分自身に
改善する点が無ければ
わざわざ
神様は
私の目の前に
誰かの姿を通して
私に対して
【気付きなさい】と
メッセージを
伝えることはしないと
思うのです。
と同時に
こんな小さな点にまで
改善しなさい、と
徹底する必要があるんだ、と
身の引き締まる思いがしました。

