特別支援学校で


教員をしていたとき


様々な障がいのある


子ども達と


出逢ってきました。


そこでの出来事は


余りにも多すぎて


全てを


表記することは


できませんが、


全ての出来事が


今の私を創る為には


どうしても必要だった出来事だと


思っています。



例えば


大卒すぐに


高等部2年生の


担当になったとき、


私は


筋ジストロフィーの


男子生徒のトイレの支援を


行った場面では...


彼の体を


ベッドに横にし


紙おむつを


外そうとしていたら


大便と小便が


排出されてきた状況で


防水ベッドは


彼の尿で水たまりとなり


彼の服は


尿の水たまりに触れたら


すぐに吸水し


服は尿まみれ。


便は


大きなものが


確か1つゴロンと


ベッドに出されて...。


でも


私1人で


彼の体を支えながら


排出物の処理は


当時の私には


技術的には


とても難しく


私は


他の教師にヘルプを


トイレから求めました。





あるときは


小学部2年生の担任になりました。


産休あけて


クラス担任になった私に


男子児童は


私が


どんな人間かを


試しました。



昼休み


中庭で


遊んでいた


男子児童は


いきなり


ズボンを脱いだかと思ったら...


シャ~っと


私に排尿してきたのです。





・・・・?




私はトイレか?










何が起こったのか


全く


分かりませんでした。


その時の


男子児童の顔...





笑っていました。





私は


怒るでも無く


叱るでも無く


ただ


呆然としていました。





あいにく


着替えを持参していなかった私は


尿で濡れた仕事着を着たまま


帰宅するまでずっと着用し


着用していた仕事着は


帰宅する頃には


気付けば


乾いていました。






特別支援学校は


英語では


Special  Needs  Education


と表記します。



Special  Needsの言葉を


どう理解するのかは


その人の意識によって


様々でしょう。



教師をしていた頃の私は


障がいのために


日常生活の様々な


障がいによる


困難さを克服するために


必要な


知識技術技能を習得することだ、と


信じて疑いませんでした。





しかし


このSpecialNeedsは


実は


障がいがある人に対して


関わる人自身が


SpecialNeedsとは何かを


自分自身に問いなさい、と


言っているのでは無いか、と


思うようになりました。





障がいがある人こそ


実は


「愛とは何か」を


身を以て教えてくれている


偉大な師だということ。





いろんなことがありました。


歯形が私の体に付くほどに


思い切り


噛まれたこともありました。



髪の毛が


何本抜けたか


分からないくらいに


引っ張られたことも


ありました。






突然


嘔吐しようとした


児童の嘔吐物を


素手で受け止めたことも


ありました。





噛まれたことも


髪の毛を引っ張られたことも


その行いを止めるように


単に


叱るだけを


教育とは


言わないことを知りました。




そんな行いを


なぜ私にしたのか...


私自身が


そんな行いを受けても


児童をさげすむことをせず


児童を非難批判せず


もちろん


児童に対して


怒ったり


時には


被害者のフリをしたりもせず


すべてを受け入れて


愛で包み込むときに


その想いに触れた児童は



安心し


信頼を知り


自分がどう生きたら良いのか、を


頭では無く


胸の奥から


感じ始めたならば


行いは


変化していくのでは無いか、と



私は


思うのです。




そして


実は


社会的弱者と言われる方々こそ


私たちに


【人としての在り方、生き方】を


教えて下さる


尊い師だと


思うのです。




社会的弱者に対する


自分の意識の在り方が


自分自身の


今の心を映し出している、と


私は


解釈しています。





生き方の答えは


いつだって


足元に


ちゃんと


あるのですね。









熊本県合志市野々島


なぎの木整体


MOE