努力という言葉が
いつの間にか
大っ嫌いになっていました。
努力
努力
努力
やって来ていたのです、
小さいときから、ずっと...。
だからこそ
教員採用試験にも
合格できたのも
事実でした。
神社で
拝んでも
紙に
「合格合格合格」と書いても
努力していなければ
合格通知は
決して来なかったでしょう。
その努力とは
机上の勉強であり、
面接の練習であり、
音楽や体育の実技であったのです。
が
プツン
糸が切れた時に
頑張れなくなりました。
「うつ病です。」
26歳の時に
ドクターから
そう言われたときから
努力の結果が
うつ病なのか、と
努力という言葉が
大っ嫌いになりました。
小さいときから
思ったことの全てが
叶ってきました。
それが
例え
倍率が33倍の教員採用試験だったとしても。
そして
相当な努力をしてきていました。
だけど
小さいときから
本当に
叶えたかったのは
【自分とは何だろう】
【何で生まれてきたのだろう】
【生きている意味って何だろう】
その疑問に対する
答えを得ることだったのに...
答えを得るための努力を
間違った方向に
使っていたんです。
間違った努力とは
間違った行いで、
例えば
神社や寺を巡ったり
カラーセラピーや
零水学や
トウリーディングや
過去生療法や
気功
レイキ
マヤ暦
数秘
心理学...
外側に
答えを求めていたこと。
もちろん
それらを
否定するものでは
ないのです。
それらを
体験したからこそ
学んだことが
たくさんあったのです。
しかし
外側に
答えは無く
私は
延々と彷徨い
余計に
迷いに落ちていきました。
間違った努力の結果でした。
そんな道のりを経て
私は
自分自身の想いを
徹底して見つめ
どんな思い方のクセがあるのかを
明らかにすると共に
思い方のクセを
神様なら
どう思うのか
どう話すのか
どう行為をするのか、を
日常生活で
行いながら
明想を続けていきました。
毎日毎日毎日毎日毎日....。
そして
あるとき
気付いたのです。
間違った努力をしていたから
努力という言葉が
大っ嫌いになってしまっていたこと。
しかし
答えを外に求めず
ひたすらに
自分自身の想いを正し
言葉を美しくし
行いを誠実にしようと
意識し続けたとき
努力という言葉の意味合いが
大きく変わり
努力=幸せとまで
感じるようになっていきました。
これを
正しい努力というのでは
ないでしょうか。
苦しむことを
努力とはいいません。
苦しむことは
自分自身の本当の在り方を
知らないから起こることだと
今
感じながら、
さらなる
努力を重ねていく大切さを
切に思っています。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
MOE