ひよこ豆の種を
ポットに入れて
苗を育てようとしました。
毎日
水やりをしました。
毎日
ポットを移動して
太陽の光に
当てるようにしました。
毎日
想いを込めました。
「大きくなりますように」
しかし
なかなか芽は出ませんでした。
半月しても
1ヶ月経っても。
これは...おかしい。
20個あった
ポットから
芽が出たのは
わずか1つだけ。
私は
思い切って
ポットに指を突っ込み
ひよこ豆の種を
掘り出そうとしました。
が
種は
ポットの土の中で
クリームのように溶けて
取り出すことは
できませんでした。
土と一体化していたんです。
その時に
子育てと同じだ、と
思いました。
子どものために
よかれと思って
口を出し
手を出し
塾だ、
ピアノだ、
習字だ、
剣道だ、
空手だ、
バレエだ...
本人の意思に関わらず
親が
子どものために
よかれと思って
与えすぎた結果
腐ってしまった...
生まれてきた目的
生きる意味
自分とは何かなんて
もう
どうでも良くなって
無気力状態になってしまった
人人人。
子どものために
よかれと思って...
本当に
子どものためなのか?
親である
自分自身は
生き方、
在り方は
どうなんだろう?
幸せか?
幸せならば
そこまで
子どもに
負担を強いるか?
それとも
周りの目を気にして
周りと同じように
やらなきゃならないと
自分も子どもも
追い込んでいるのか?
何を
子どもに
望んでいるんだろうか...。
子どもには
個性があります。
習い事がいっぱいでも
それを
愉しみながらやっていく子、
やりたいと言ったけど
やってみたら
実は
自分に合わなくて
辞めたいけど
親が
辞めさせてくれないから
仕方なく
嫌々している子。
私は
長男が
あまりにも
優しすぎて
やんちゃな子に
力的に
一方的に
やられっぱなしを
保育園のときに
見ていたのもあり
長男が小2の時から
空手を習わせました。
私も一緒に...。
しかし
1年経たないうちに
私は
妊娠し
空手を辞めましたが、
長男には
続けさせました。
1人だと不安かもしれない、と
私の代わりに
次男坊にも
空手を習わせました。
ところが
長男は
空手の曜日になると
決まって
体調不良を
言ってきました。
それでも
長男を
私は
強制的に
行かせました。
そんな長男の空手の試合は
組み手の試合になって
はじめっ
と
審判の合図があっても
構えることもせず
ただただ
打たれっぱなしでした。
まるで
棒のように
ただ立っているだけの
長男は
サンドバッグのように
ひたすら
打たれ尽くされました。
その時に
私は
空手を
辞めさせよう、と
決めました。
心を壊してまで
習う必要のあるものなんて
何一つない、と
痛感したからです。
以来
我が家は
誰も
習い事を
していません。
していませんが、
自分から調べて
興味ある内容があれば
プリントを持ってきて
「行きたい」と言ったものに
行くようにしています。
子どものために...
私は
子どものために
何が
できるか、を
追究したとき
自分の生き方を
見せるしか無い、と
そう思いました。
だからこそ
私は
全力で
「自分を知る」を
追究してこれたのかも
しれません。
“子どもを幸せにしたい”
そう思っている自分が
幸せで無いならば
どうやって
子どもを幸せにできるのでしょうか。
今日も
一瞬一瞬を
大切に
過ごしていきます。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
MOE