生まれてきた意味
生きている目的
自分とは何だろう...
小さい時からの疑問を
上江洲義秀先生は
ハッキリと
言葉で伝えてくれました。
それでも
私は
言葉を実感できなくて
頭に詰め込まれた観念概念が
余りにも多すぎて...
上江洲義秀先生の言うことに対して
疑問を持ったり
怒りや反発など
様々な思いが吹き出していました。
が
もうこれ以上
堂々巡りをしていたくない、と
私は
個我を手放し
意識の全てを
愛だけに
向けながら
必死になって
明想を続けた
ある日
私の中を
強い強いエネルギーが流れて
その日を境に
私の中にあった
石のような感じは
キレイに消えていきました。
やがて
心というものは
愛=神様の使う道具であったことを
実感するようになりました。
心は
神様が使う道具ならば
心が感じるのは
幸せ、至福しかありません。
また
幸せ、至福こそが
神様でも在りました。
そして
同じように
思考も神様の道具でした。
思考が神様の道具ならば
神様ならば
どう思うのか
神様ならば
どう語るのか
神様ならば
どう行いするのか
を
いつも判断基準に
するでしょう。
そこには
「〇〇しなければならない」
もないし
「〇〇すべき」
もなければ、
周りの人に対して
非難批判することも
絶対にしないでしょう。
愛=完全な意識の状態
そこに観るのは
完全しかありません。
今の私は
私に対して
嫌悪感を持つ人にこそ
「幸せであるように」と
思えます。
そして
心とは
波1つ
動くことのない
状態になったとき
初めて
本当の姿を映し出す
映写機だったことを
私は
知ったのでした。
これは
私が実際に体験したものを
私が知りうる限りの文字を使って
表現したもので
人により
体験が異なれば
また
表現の仕方も
変わってくるでしょう。
しかし...
私は
今
心という道具に
影響されないことが
素晴らしい生き方の始まりだ、と
実感しながら
一瞬一瞬を
生きています。
そして
そこには
過去も未来も
ありませんでした。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
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