畑を始めてから
気付くことは
たくさんあるけど、
疑問に思うことも
たくさん出てくる...。
特別支援学校の教師だった頃、
とかく私は
差別用語や差別的態度に
過剰に反応していて...
当時
「百姓は、差別用語」と
耳にしたとき
その理由や背景を知ろうともせず
ただ
「百姓は差別用語」だけを
鵜呑みにしていた私が...
今
実際に
野菜や花を育てて
分かったこと。
【分かる】
それは
知識では無く
実感として納得できて
そう生きていくことができる...
そう言う意味で
分かったことは、
四季のある日本で、
百の仕事をこなす
農業に携わる人を、
“尊敬の想いを以て
【百姓】というのではないか”
ということ。
畑は、
単に土があって、
水があって、
光があって、
種があれば実るのでは無く、
土を観る洞察力、
空気(湿度)を感じる感覚、
野菜の生命力を知る力、
水を与える加減、
肥料を何にするのか、
覆いや支柱をどう作るのか、
時期を観て、何を植え育てるのか、
何よりも
自分自身の内側の在り方を
畑はありありと表現する...。
意識が変わると、
差別用語だと思っていたのは、
実は、
自分の中に
差別する心があるから、
差別用語に反応することが見えてきた。
さらに言うならば
以前は
【家内、奥さん】という言葉も
女性を差別する言葉に感じていたものが...
“家内”
家の内
家の中の大切なもの
家の内が整うとき
その家庭が自ずと整うこと。
“奥さん”
奥とは、
本来は
人目にも付かない場所にあるもの...
それくらい
大切にされて居るもの。
そう感じた瞬間
“家内”や“奥さん”を嫌っていた感情は
あっという間に
消えていき、
私は
全てが楽になったのを
体験した。
土に汚れ、
汗や水に濡れ
虫を触り、
毎日を
自然の中ですごしながら
“当たり前のこと”が
見えてくる。
頭でっかちだった私には
絶対に分からなかった、
大切なことは
いつだって
足元にあることを。
そして
“言葉”という鎖が
だれでもない
自分自身を縛り付け
苦しかったことを。
今
どんどん
言葉の呪縛から
解放されていく心地よさの中
生かされていることに
幸せを観ている。