体験に
上下も
特別・平凡もなくて
神様は
全ての人に
それぞれにあった
完全な場を与えて下さっている、と
実感しています。
約2年前
高校時代の友人が
どん底だった私の元へ
新幹線に乗って
来てくれました。
数年ぶりに会ったとき
友人が
最初に口にした言葉は
「来たよ」
ただ
それだけでした。
ただそれだけ...
だけど
新幹線の改札口で
その言葉を聞いた時
涙が溢れ
友人を
思わず
強く抱きしめました。
友人は
私の自宅へ来てから
こう言いました。
「何もできないけど...」
友人は
私の心情を聞き
一緒に
ご飯を食べ
やがて
夜になり
再び
新幹線で
帰って行きました。
「何もできないけど...」
違う...
わざわざ
来てくれた。
何も評価せずに
話を聴いてくれた。
私に
「生きていて欲しい」
そう言ってくれた。
同じ時期
私に
「MOEちゃんの状況なら
まずは
家族のために
ご飯を作ることから
始めたらどう?」
そう言った人が居ました。
苦しみから逃れたかった私は
立つのがやっとの状況の中に
麻婆豆腐と卵スープを
作りました。
すがる思いから
家族のために作った料理は
一度きりに終わりました。
その時に
知りました。
「何もできないけど」
そう言った友人の想いは
上から目線のアドバイスより
遙かに遙かに遙かに
私を癒していたことを...。
月日が経ち
“上から目線のアドバイス”と
解釈していた私が
実は
そうアドバイスした方も
それが精一杯だったことを
知りました。
「誰かに助けて貰いたい」
必死だった頃の私は
その体験こそが
“我”を削ぐためには
どうしてもどうしてもどうしても必要だった
神様からの愛深き贈り物だったことを
知るのです。
だから
分かったのです。
もしも
苦しみ悩みあがく人がいたとしても
私には
“何もできません”と...。
できないけど、
だけど
知っています、と。
苦しみ悩みあがくのは
原因と結果の法則から
起こったもので
それは
原因を作った人にしか
解決できないことを。
しかし
この体験は
苦しむために
悩むために
在るわけではなくて、
本当に大切なことに
気付くために
起こったに過ぎない...
やがて
悩み苦しみは
ニセモノだとあばかれて
消えてしまい
必ず
ホンモノである優しさや慈悲や愛が
内側から溢れてくることを。
だから
苦しみ悩みあがく人から
その学びを奪ってはいけない...。
「何もできないけど...」
そう言った友人。
その友人こそが
愛であり
神そのものだったのです。
ありがとう。
生きているよ、私。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
MOE