コロナウィルスに感染し
自宅から出られない期間が
約一週間ほど続いた時
私の意識の中には
「畑に行かないと
誰が
野菜のお世話をするの。
私が行かなきゃ、
私がやらなきゃ、
私が...
私が...
私が...」
でした。
初めて始めた畑は
単なる畑では無く
私にとっては
“学びの場”です。
野菜を枯らすわけには
いかないのです、
何があっても...。
誰かがやってくれる、
何かがやってくれる、
そんな依存心があるなら
“学びの場”にはなり得ない、と
そう思っていました。
気持ちばかりが募り、
しかし
身体は
思うように動かせず
私にできるのは
自分の内側の動きを観ることだけ...でした。
約一週間ほどが過ぎて
畑へ行ってみたときに
一番最初に感じたのは
私がいなくても
野菜は
成長していたこと、でした。
私1人が
勝手に
“私が” “私が”と
思っていただけで
野菜達は
野菜としての命を
しっかりと表現していました。
この“私が...”こそが
“我”であり
余計なものであり
執着であり
削ぎ落とすものだと
痛感したのです。
「してあげている」とか
「やってあげている」とか
そんな傲慢さが
“私がやっている”
“私がやらなきゃ”と
勘違いをし
勝手に想いを背負い
義務感となって
自らを縛り
身動きが取れなくなり
周りの人を
自分の思うように動かそうとする
意識の芽生えになっていました。
この時の私は
自分自身が
畑へ行けなかったので
次男坊を
半ば強制的に
畑へとお願いしました。
私が
野菜達にできることなど
何一つとしてなく
ただ
野菜達が野菜達の命を
目一杯輝かせることができるよう
お手伝いするに過ぎないことを
知りました。
子育ても
同じだと思います。
学校教育も
同じだと思います。
子ども達の
生まれ持った個性を
個性として
子ども達に関わる大人は
どれだけ
“お手伝い”できるのかを
学ばせていただいている...
そんな意識でいたら
「お母さんが
せっかく
やってあげたのに」
「高い学費を
払ってあげたのに」
「あなたのために
働いているのに」
「こんなに
頑張っているのに」
なんて言葉は
出てこないと
思います。
これらの言葉は
子ども達に
何かの見返りを求める
“我”があるために
生まれてくる言葉だと
私は
解釈しています。
“我”を削ぎ落とし
削ぎ落とし
削ぎ落とし...
磨きに磨きをかけるとは、
自分自身の想いのクセを明らかにし
徹底して
改善していく努力を続けることでしか
相手との関係改善は
できないことも
今
野菜達から
子ども達から
学んでいます。
大切なことは
見える部分の背景にある
見えない命を感じる
意識を育むことだと
思っています。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
MOE