頭を殴られたかのような
衝撃を受けました。
偽我である私を
壊すには
これくらい強烈な
メッセージが
必要だったのでしょう。
私が今言おうとしていることは、
自由すなわち解脱への道、
すなわちキリスト・ヨーガに
目覚めようとしているあなたにとって、
きわめて重大なことである。
たいていの読者の聞き方(読み方)には
身が入っていない。
彼らは、
自分の聞きたいことだけしか聞かない。
彼らを洗脳しているもの、
彼らの洗脳や見解を突き破ったり、
あるいはそれらを揺さぶるものには
自分自身を閉ざしてしまう。
彼らは心地よいもの、
彼ら自身を洗脳しているものを
満足させるものにしか耳を傾けない。
しかし、
われわれが自分を喜ばせるものだけ、
また自分の信じていることや
観念を満足させ、
あるいは
確認させるものだけに
耳を傾けるならば、
正覚はありえない。
あらゆることに偏見を抱かずに、
また
自分の無知、
自分の堅信、
自分なりの知識、
自分特有の個性、
自分の見解を守るために
防壁を築き上げることをせずに
耳を傾けること、
そして
事柄の真理を見出す意図をもって
耳を傾けることは一個の芸術である。
なぜならば、
われわれを
根本的に解脱させるのは
真理のみであって、
推論や空論ではなく、
真実ならざるものを
知覚することだからである。
心を造り成しているものは
真理ではない。
真理は心を超えたものである。
ゆえに、
真理が啓示されるには、
心は捏造をやめなければならない。
せせこましい頑迷な心、
おのれをがんじがらめにし、
盲目にするもろもろの信仰や知識によって
洗脳されている心に、
物事の真理が啓示されることは
決してありえないのである。
自分勝手に決め込んだことや
偏見や経験で散らかっている心で
キリストヨーガを
ものにしようとしたところで、
それは不可能である。
キリストヨーガは、
愛、神の英知、
すなわち
無碍に為て活発発たる神我であって、
単なるその概念ではないのである。
そのような観念は、
神我の創造性に対する障害である。
観念は、
あらゆる洗脳するものによって
取り囲まれた自我の投影に過ぎない。
ゆえに、
耳を傾けるにあたっては、
単に言葉を聞くのではなく、
その内なる中身に耳を傾けることである。
そうすることによって、
あなたは物事の真理を
自らの力で発見するであろう。
心が自ら造り成した
もろもろのものより解き放たれた時
初めて真理は現前する。
あなたが、
日々の苦闘、恐れ、事業の心労、
家族の葛藤、社会での怨憎や欲求不満の中に
とらわれているならば、
それらはあなたにとって
あまりにも耐えがたきものであろう。
それゆえに、
あなたは救いの手段として、
言うところの真理を追い求める。
しかし、
そのような形の逃避は
いかなる問題をも
決して解決することはできない。
それは、
いたずらに心を鈍らせるだけであって、
混迷は依然として残る。
心が刺激やいわゆる霊感により、
あるいは祈りやマントラによって
逃避しようとする限り、
解脱に必須な心自身の成り行きを
見極めることはできないのである。
自我を知ることこそが唯一の道である。
マクドナルド.ベイン著
仲里誠吉訳
“キリストのヨーガ”より抜粋
あとは
自分の意識を
どう改善していけるかは
自分の実践と
努力次第だ、と
日々
問われる毎日です。
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
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