次男坊が
学校からの帰り道に
落書きが目に入った、と
言いました。
その落書きは
キレイな言葉では無く
見ていたら
「苦しくなった」と
次男坊は言いました。
その時
私が
次男坊に伝えたのは...
「落書きをする人の心は
幸せでは無いの。
幸せならば
落書きなんてするはずはない。
だから、
そんなときは
落書きをした人の心が
どうか幸せで満たされますようにって
祈るといいよ...。
幸せを1番求めている人だから。
それに自分で気付いていないから
落書きしてしまっただけだから...。」
次男坊は
「お母さんが 言う前に
僕は
その人が幸せになるようにって
すぐに思ったよ!!!」
落書きしてはいけません...
あるいは
落書きする人は悪い人です...
学校ならば
その一言で終わるかもしれません。
しかし
目の前にある全ては
神様が与えて下さった
必然として現されたことなら...
私たち親子にとって
落書きは
“悪いこと”ではなく
親子が共に学ぶ生きた教科書になりました。
落書きした人を
悪いと裁くのでは無く
その行為に至ってしまった
心に想いを馳せて
どうぞ
その人の心が安らかであるように...
落書きを賞賛するわけではありません。
しかし
私が小6の頃
私にとって
都会だった
神奈川県での暮らしは
頭では分からなかったけど
波動として
合わなかったようで
その時の私は
あちこちに
落書きをしていた
体験者でもありました。
だから
落書きをする人は幸せではない、と
断言できるのです。
この世界は
自らが
体験を通して学び
体験から
浄化され
人は美しくなっていくならば
誰のどんな行いも
周りの人は
裁くことはできないことを
知りました。
机の上の教科書で学んだことは
忘れたとしても
その行い1つから
身を以て学んだことは
絶対に忘れません。
目の前に美しい子どもがいる...
美しさを表現するために
私たちは
この世界に
生まれてきたことを
次男坊が
身を以て私に教えてくれました。
この世界は
美しいです。