この気づきに
私は
驚きました。
「当たり前」とさえ
思いもしなくて
意識さえ
していませんでした。
なのに...
それで
教師をしていたことに
驚きました...。
ふと
“道徳とはどんな意味から生まれたのか”と
内側から問いがありました。
すぐに
答えはやって来ました。
徳とは
己の全てを他者のために生かすこと
愛そのものとして
光放つものであれ...
道とは
徳に至るまでの過程を
その姿を通して伝えていくこと
これが“道徳”だと。
しかも
自己犠牲ではないこと。
他者のために生きることそのものが
己の喜びであること。
!!!
そんなことさえ知らず
教師をしていたことに驚き
言葉を失った私に
さらに
内側から
語りかけは続きました。
“国語”の意味を知っているか...。
国とは
光り輝く玉(愛)を
囲ってしまったことから
それぞれの特徴が誕生した。
日本は
日=太陽=光
本=元=源
光(愛)を源として
世界中を
照らしていく役割があること
その意味を“語り”
語り合う中で
意識を高めていくことが
本来の“国語”である。
初めに言葉ありき
読み書きが
国語の基本で
発展したのが
文章読解であり、
さらに
高度になると
古語や文法へ
繋がっていくと
思い込んでいた私は...
こんなことも知らずに...
いや
知ろうともせずに
教師をしていたなんて...
そう感じました。
だから
思うんです。
道徳を授業できるのは
その意味を本当に理解し
そう生きている人であり
または
そう生きようと意識している人にしか
本当の道徳はできない、と。
私が
その時に
思った人は
ガンジーであり
マザー・テレサでした。
彼らは
道徳を教えようとはしません。
ただ
自ら進んで信じた行いをし、
それを見ていた周りの人が感化され
やがては
国を変えるほどの大きなエネルギーにまで
発展しました。
今
私が思うのは
日々の気づきの積み重ねが
やがては
それが形作られていく源になっていく...
そう感じるのです。
それは
神様の時間において
実現していくので
今の私の頭では
計画なんて
到底考えられないけど、
“教える”という形態の無い
共に学び合う
愛溢れる場所なんだと感じます。
自然の中に
小さな川が近くにあり
畑を耕し
動物が居て
建物さえも
自分たちで
1から作り上げていくのでしょうか。
自然の中で
やりたいことをするうちに
内側から発見があり
そこから学び気づき共有し
やがて
自然に(表現するために)書きたい、
自然に(知るために)読めるようになりたい、
そう思い始めたとき
初めて
鉛筆を持って
書くことが始まるのでしょう。
教える人はいません。
しかし
文字を“伝える人”はいます。
伝える人は
伝えることから
学びを得ていくのです。
学びには
いつも
謙虚さがあり
謙虚さがなくては
学びにはならないのです...。
道徳の意味も
国語の意味も
教師だった私に分からなかったのは
そこには
それなりの意図があり、
また
今
その意味が分かったのも
これからに生かすためであることを
改めて
感じています。
毎日
学べることに
感謝しながら
今日も大切な時を刻みます...。