教師を辞めるとき
私の中に在ったのは
“人を助けたい”
でした。
私のように
悩み苦しむ人の心を
少しでも楽に軽くしたい...
そう決意し
退職しました。
また
教師という職業が
自分には
もう合わなくなっていった
というのもあったように
思います。
人を助けたい
その想いが
純粋にそれだけなら
悩みも苦しみも
絶対に
無かったはずです。
しかし
私は
“人を助けたい”と思っていながら
その助ける人が
私の元には
全く居なくて
私は
自分の存在価値を
無くしたかのように感じました。
また
公務員を辞めた私の中には
この時から
経済的な不安が生まれました。
どうやって生きていくの?
人を助けたいどころか
自分のことさえも
対処できなかった私に
一体
誰を
何を
助けることが
できたのでしょうか...。
神様が
完全だと感じるのは
不十分だった私に
クライアントさんがいらしたら
私は
私の観念概念や常識を
クライアントさんに押し付けて
きっと
“助けてあげた”という
驕り高ぶりの勘違いを
していたことでしょう。
それを
全て見抜いて
私は
1人にさせられていたんだと
思うのです。
神様は完全です。
また
完全だから神様なんですよね...。
私の子どもが
素晴らしい体験を
語り聞かせてくれました。
同級生のお友だちは
小学校時代は
体育が嫌いで
体育がある日には
欠席をするほどだった、と
言います。
ところが...
お友だちは
自分自身を変えようと
努力し始めました。
その努力を毎日続けました。
毎日、毎日
走り続けたのです。
そして
中学校へ上がり
現在は
持久走でも
トップを走るほど
変化を見せたそうです。
長男は
言います。
「あれだけ
人が変わるのを見たら、
自分も
頑張ろうって思うんだ。」
長男の友達は
“人を変えよう”なんて
一切
思っていませんでした。
ただ
自分を
努力の積み重ねで
変えたことが
周りに居た人間(長男)に
影響して
長男までもが
変わったんです。
その話を聞いて
我が身を振り返りました。
“人を助けたい”なんて
その言葉は
私のエゴ(偽我)だったと...。
私が
徹底して
私を追求し
真我を現せたなら
“助けたい”なんて思わなくても
その雰囲気は
自然に拡がっていくことを...。
私は
家族から学びました。
そもそも
“助けたい”は
助ける人と助けられる人が
必要で
助けられる人(悩み苦しむ人)を
認めることになります。
私は
知らなかったとはいえ
悩み苦しむ人を
欲していたことになります。
そうやって
自分を知る...を
毎日毎日
重ねる中で
気付きは
どんどんやって来て
その度に
“神様は凄い”と思ってしまいます...。
だから
学び続けようと思うし
学び続けたいと
思うのです。
どの体験が無くても
“今”はありません。
自分を縛っていたものが
1つまた1つ
ほどけていくのを感じるたびに
深く息ができるようになり
自由が拡がっていくように
思っています。
どんな体験も
今は
有難い宝になりました。
そして
私には
“助けたい”さえなくなり
人は
自分の内に
自分を救う素晴らしい力を
皆が持っているんだ...
そう観じています。