私が寝たきりだった頃


夫に言われた言葉


「もえ


今幸せであるんだ。


今なんだよ。


今、切り換えなきゃ。


いつか、じゃないんだ。」





未熟な私は


これに対して


こう言い放ちました。



「頭では分かってる。


分かってるんだよ💢


でも


それができないから


どうしようもなくて


苦しいんだよ。


助けてよ!!


どうにかしてよ!!」




この会話が


教えてくれます。




知識(情報)が


幸せにしてくれることは


無いことを...。




小学校の現場で


よく見られます。


道徳の授業を受けて


頭では良い、悪いが分かっても


廊下や教室に


ゴミが落ちていても


「自分が落としたんじゃないから


別に拾わなくていいし。」


そう言った子どもは


1人2人ではありませんでした。




逆に


知識(情報)が無くても...


わずか2歳の子どもが


幸せの意味を感じ


幸せの中に生きている姿を


私は


知っています。




長男が


2歳の時


保育園の帰りに


私のために


コスモスの花を


摘んできたそうです。


大切に大切に摘んだ花は


長男のズボンのポケットの中で


萎れてしまい


帰宅した頃には


長男は大泣きしたと言います。


そして


夫と共に


再び新しいコスモスを探し歩き


私のために摘んできたのです。


学校の仕事を終えた私に


長男は


嬉しそうに


「ママどうぞ」と


手渡してくれたことを


今でも


ありありと思い出せます。




2歳の長男は


知識に汚されていないから


ハートに従い


素直な想いを


行動に表していました。




インドの聖者も言います。


「知識は真理を飲み込む」と。






もし


知識が幸せにとって


必要不可欠ならば


教師だった私は


至福の中にいたはずです。




【頭では分かるんだけど】


この言葉は


生き方に対して


どう在ればよいのかを


私に投げかけてくれました。





大切なことは


今幸せであることが


実感できること。


実感するとは


幸せそのものであること。




束の間の幸せなんて


私は


求めませんでした。



仕事の肩書きも


お金に対する執着も


周りを気にする目も


時間がかかりましたが


徹底して


取り除く努力を続けました。





今も


常に意識しています。



想いは正しくあるのか


言葉の使い方はどうか


行いはどうであるか...





時に


「はあ...想いが違う」と


凹んでは


すぐに切り換えようと意識し


前へ前へと


一歩一歩


ここまでやって来ました。





脇目もふらずに


自分とは何か


追求してきました。


そして


どんどん意識が変わっていく中で


さらに


自分とは何かを


今も


追求し続けています。





そして



私は


感じています。




全てが愛に包まれていることを。


既に


充分充たされていることを。



だから


感謝しか在りません。




私が実感できた


その理由は


“私は知ってる”という


傲慢に気付き、


ひたすら学ぼうと


意識し実践し続けてきた


結果だと分かりました。



本を読んで


「分かった」ならば


すでに


幸せを実感して


そう生きていたはず。


でも


幸せではなかったのは


本当の意味で


分かっていなかったから...。





本の読み方も変わりました。




少し読んでは


手を止めて


目を閉じて


本の伝えようとする


その想いを感じるのです。


だから


なかなか


読み進まないのですが


その静かな時間の中に


幸せがあります。





私にとって


幸せとは


静けさの中に在るものと


なっています。




今年を振り返り


夫の言葉が


甦ります。



「もえ


今幸せであるんだ。


今なんだよ。


今、切り換えなきゃ。


いつか、じゃないんだ。」





熊本県合志市野々島

なぎの木整体

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