気付けば気付くほどに


溢れるばかりの愛を注がれ...


それに対して


私は何ができるんだろうって


想えてきて...





溢れるばかりの愛...


気付けなかった頃は


目の前に現れる出来事に


悩んだり


苦しんだり


感情が嵐のように激しく動いたり...





その時に


「何故、人は生きるんだろう」


そう思いました。






ある時


散歩をしていて


ふと目についたゴミ。



それは


車から投げ棄てられたゴミ。





それを見て


私は自らの内側が動くのを感じた時


このゴミでさえも


私に教えを与えてくれる


素晴らしい存在であることを知りました。




ゴミがなければ


何も気付かない...


いや


気付けない...。





ゴミがあったからこそ


私は“私とはどんな人間か”に


気付けました。




以前


棄てられたゴミ達に


「なぜゴミを棄てるのか」と


棄てる人の行為を責めました。


裁いていました。


私は正義の人でした。


(しかし


裁く想いは


エネルギーとなって


放った想いは


時を経て


自分に戻ってきて


私自身が


そのエネルギーで


苦しむことになりました。)





やがて


自らは


ゴミをポイ捨てしない人間で良かった、と


思うようになりました。


優越感がここにありました。


(当時の私は


気付けませんでしたが


私は


無意識に


自分の中に


ずっと


劣等感を持っていたのです。


もし


劣等感がなければ


それと相対する優越感なんて


湧くはずはなかったのです。)







優越感ゆえに


ゴミ拾いをしたこともありました。




そして...


ある時


ゴミを見て


自分の内側に


何であれ


何らかのうごめくもの(思考や感情)が


あるなら


それそのものが


メッセージとして


私に


教えてくれる存在であることに


気付きました。




ゴミ捨てに


賛成しているわけではないのです。




しかし


そのゴミでさえも


神様が姿を変えてでも


どうしても


教え伝えたかった


強い思いがあることを


垣間見たときに





神様の深い深い想いが伝わり


私は


この世界の全てが


学びの場であることを


知りました。





草の1つ


風のささやき1つ


石1つ


時には


時計の音


サイレンの音でさえも


ありとあらゆることが


自分に影響を与えています。




そこで


どんな風に


感情や思考が動いたのかで


自分というものが


見えてきました。



自分を知りたいなら


ありとあらゆることに対して


どう想い


どう考え


どう感じるのかを


観てみること。





自分を


変えよう


変えていこう...




それは


とりもなおさず


常に


学び成長しよう


ということでもありました。







姿を変えた神様からのギフトに


気付けば気付くほどに


溢れるばかりの愛を注がれ...


それに対して


私は何ができるんだろうって


想えてきたことの答えの1つに




その気付きを表現することと思い、



それを文字に託して放ちます。






数え切れないほどの情報に



人は


何が本当なのか、と


情報の波の中で


彷徨っているけれど


だからこそ


あえて


目を閉じ


耳を閉じ


内側を観じることが


本当に大切であるように


思えてきます。







熊本県合志市野々島

なぎの木整体

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