何も見えなくて


どんな言葉も


心に入ってこなくて...




そんなときでも


何故


生かされていたんだろう...












胸の奥の奥に


頭では分からなくても


かすかな光を


どこかで


感じていたからだろう


今  


振り返ると


思うのです。




それは


どんな時でも


誰にでも


絶対に在るものだと


確信していますが...






頭でグルグル


思考が動き回っていたり


心でグチャグチャ


感情が波立っているときには


なかなか


感じられませんでした。




こんな時


人生の主導権を握っていたのは


思考や感情や五感でした。





なぜ


そんなことが


起こっていたのでしょう。






私は


とにかく


小さいときから


先生になるために


それだけを目指して


勉強をし


部活に励み


あらゆる本を読み


“先生になれば幸せになれる”と


信じて疑いませんでした。




また


子ども達が好きであり


キラキラした輝きを


1番近くで感じられる


素晴らしい仕事だとも


思っていました。









ところが...


何かが


違いました...。






“何かが違う”






これは


とても大切な感覚だったと


今でも


そう思います。






詰め込んできた知識や技能


こうあるべきという教師の観念概念


身体に染みついて


気付きもしない感覚的な思いのクセ





こんなものを以て


“本当に幸せである教育”なんて


不可能だよ、と


胸の奥の奥にある光は


ずっと


教えてくれていたのです。







胸の奥の奥にある光







それを感じて


それを信じて


今を生きようとすることを


既に


子ども達は


やっていたんです。





そんな大切なことを


いつの間にか忘れてしまって


大人になった私は


“先生という立場”を以て


教育をしようとすることが


“何かが違う”と


胸の奥の奥にある光が


ちゃんと教えてくれていたのです。







人は


自然の中に


身を置くことで


調和と


与える喜びと


この世界の美しさと


言葉も文字をも越えた


神秘的なものを


身体全体で感じながら


幸せを


いつも味わい


何を為すにも


喜びから事を為し


幸せを拡げていくために


この身体があることを


知るのだと


思いました。




今の今が


幸せだったんです。




今の今が


既に


感謝に値するもの


だったんです。








神様が


あの手この手を使い


目に見えては


「何で💢」と思えたものでさえ




それは


幸せであるためには


必要ではない思いのクセを


手放すために


それしか方法がなくて


神様が


現象として


現してくれているのだと...。







思いのクセが


1つ


また1つと


姿を消すにつれて


胸の奥の奥にある光は


どんどん輝きを増していきました。





別の表現をするなら


かすかにしか感じられなかった


命の輝きが


様々な体験を通して


力強いエネルギーとしての


命の輝きとなって


姿を現してきている...という


感じでしょうか。







これまで


いろんな人が


私の傍から


離れていきました。





まるで


一人になったかのような


感覚に


寂しさや孤独感を


覚えたのも事実です。





しかし


神様は


完全でした。





私には


必要なものは


既に


全ての全てが在り


私は


それに気付くだけで


良かったのです。




そして


それに気付くと


自然に


感謝の気持ちが


溢れてきました。








わずかな光しか


感じられないとき...







私は


それを


信じました。





わずかな光





そこに


進む道が


ちゃんとありました。







熊本県合志市野々島

なぎの木整体

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