瞑想を知ったのは


いつ頃だったか...





実際に


座禅を学びとして


道場に行ったのは


2016年4月


熊本地震が起こる直前でした。



初めての座禅だったにもかかわらず


道場に永年おられる方から


「座禅をされていたのですか?」と


言われました。


蓮華座も


苦しくはありませんでした。


座禅道場は


1回行ったきりで...


そのままとなりましたが。







やがて


何も


意識することなく


瞑想をするように


なりました。




私は


やり始めの頃から


光が見えたり


目を閉じていても


部屋が見えたり


そんな体験をしていました。









ところが







教師を辞めてから


やり続けた


瞑想は




経済的な


心配不安恐怖を抱えた私に


強烈なものを


もたらしました。






瞑想は


内にあるものを


増幅させてしまって


私は


精神をどんどんおかしくさせ、


やがては


死しか考えなくなっていきました。




また、


瞑想のやり始めに見ていた


光や様々なものも


私自身の


心が


無意識に


作り出していたものだと


後から気付きました。








瞑想が


瞑想ではなく明想だと


学んだとき...


欲望や執着を抱えたまま


明想をしてはならず、


まずは


自分自身の思いを正し


言葉を正し


おこないを


正しくすることが先であり、


それを以て


深い明想へと


至ることを知りました。








明想を


し始めたとき


出て来る様々な想いに驚きました。


些細なことなら


明日の献立とか


買い物とか




あるいは


過去にあったことや


気になる人や



または


未来のことなど



ずっと


思考が動いていて


座っていても


内側のおしゃべりは


1秒たりとも


止まることは無かったのです。





「こうなったらいいな」


「こうありたい」





そんな思い(欲)は


見えないものの影響を受ける


恐ろしさも体験しました。









明想ができない日も


もちろん


ありました。





それは


怒りや悲しみや恐怖で


どうにもこうにもならない日。







そんなときは


早めに寝て


落ち着いてから


明想をするようにしました。







明想と同じくらい


日常生活のささやかなことを


大切にしていきました。




意識は常に


“愛”であるようにしました。





そして


やっと...




明想の意味が


分かり始めたように


感じます。




明想は


内側のおしゃべりが止んだとき


そこからが


始まりでした。





明想が


心地良くなりました。





生きる意味も


自分自身がなにかを


教えてくれたのも


明想をやり続けた結果です。






今の時代だからこそ


私は


正しい明想を知り


自分自身を追求することが


求められていると


痛感しています。












熊本県合志市野々島

なぎの木整体

MOE