宗教というと
そのイメージは
決して
良いものでは
ありませんでした。
人生で
何かしらの悩みがあり
それを
何とかしたくて
藁をもすがる思いで
宗教のドアを
叩いたと思うのです。
何も無い人が
宗教に
関心を持つはずが
ありません。
でも
お金の寄付や
その他の財産や
諸々を
寄進する中で
宗教を
やめようとする人に
今度は
「バチが当たる」など
脅しがあったとも
聞きました...。
人の心を救う宗教のはずが
そのイメージが
良くないのは
そんなことが
背景にあるように
感じます。
幸い
宗教には
足を踏み入れなかったことは
守られていたとしか
思えません。
ところで...
宗教を
もし
盲目的に何かを信じ
それによって
幸せになれるだろうと思い
しかも
それから離れたら
生きてはいけないと
危機感が
沸き起こるなら
それは
名前の違う“宗教”だと
思うのです。
例えば
学歴はどうでしょうか。
例えば
肩書きはどうでしょうか。
例えば
お金はどうでしょうか。
私は
肩書きもお金も失って
自分が
どれだけ
それらに
依存していたかを知り、
また
失ってから
無いことに対して
恐怖を感じました。
まさに
肩書きやお金の信者だったのです。
それは
後悔となって
私の心を
鎖のように
かんじがらめにし
思考は
同じところを
グルグルと回り
精神を
病んでいったのです。
そんな私を救ったのは...
日々を
健気に過ごす
子ども達と
無欲で献身的な
夫の存在でした。
時間はかかったものの
“そんなもので
苦しむくらいなら
何も無くても良い”
と
思い始めたのです。
すると
不思議なもので
焦りが無くなり
豊かさに気が付き
学びを得たのです...。
ニセモノを
(名声・肩書き・お金など)
生きていくために
欠かせないものだと
勘違いしていたから
(思い込み)
同じ波動を持つ人が
集まってきていて
良い人の顔をして
さも
それが正しいかのように
それを
手に入れるハウツーを
教えようとしてきました。
私は
そのハウツーを得るために
どれだけの
お金や時間を
投資したことでしょうか。
たしかに
生きていくために
生活に必要なお金は
ある程度は要ります。
私の言う
お金に対する執着とは
いくらあっても
足りることを知らず
もっともっと、と
追い求め
それでも幸せだとは感じられない
その考え方や感じ方を
ニセモノだと
表現しています。
類は友を呼ぶの
ことわざのとおり
ニセモノはニセモノに集まり
ニセモノから離れると
やがて
ホンモノが姿を見せ始めます。
ホンモノは
何があっても
揺らぐことは無く
不安や恐怖なんて
存在しません。
今
私は
神社やお寺に
まったく行かなくなりました。
行く必要を
感じないのです。
明想をして
静かにしていると
内側から
穏やかさが
感じられるのてす。
私は
一人一人の中に
本当は
ちゃんと
光があり
それさえ
感じることができるなら
外側の何かに
依存すること無く
生きていくことが
できるのではないか、と
解釈しています。
世界が
光に包まれますように✨✨✨
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
MOE