今まで
沢山の方々から
「泣きました。」
「私と同じです。」
「感動しました。」
などの
メッセージを戴きました。
メッセージを貰いたくて
文字を綴ったわけでは無かった分
それは
驚きでもありました。
なぜ
人の心に届いたのでしょう...。
体験したことを
あるがまま
そのままに表現し、
そこから
感じたことを
文字にした時に
“想い”が命を宿し
まるで
生きたもののように
リアルにイメージできたからかも
しれません。
かっこつけず
見栄もプライドも体裁も棄てて
先に
ハートをひらいたから
読む方の心も
ひらかれたのかもしれません。
ずっと
ず~っと
求め続けたのは
心の穏やかさ
ただ
それだけでした。
ただ
それだけだったはずなのに
大学に合格すれば
とか
採用試験に合格すれば
とか
結婚すれば
とか
お金があれば
とか
周りの状況(条件)を
1つ1つ
クリアすることによって
それを叶えようと
思って努力していました。
ところが...
条件が満たされても
必ず
心が穏やかでは無い
“何か”が
目の前に現れていました。
そのほとんどは
人間関係
でした。
目の前のAさんが
いなくなって
ホッとしたのも
束の間で
似たような
Bさんがやって来て
私の心は
波立ちました..。
小さな頃から
ただ
心の穏やかさを
求めていた私は
これをクリアするために
哲学書を読み
自己啓発本を読み
スピリチュアルな本を読み
知識を詰め込みました。
今度は
この知識によって
周りの人を
裁いていました。
その知識さえも
却って
“邪魔”に
なりました。
読めば読むほどに
枠ができる感じがしてました。
遠回りしたように見えていました。
焦りました。
不安も恐怖もありました。
でも...
沢山の体験を
重ねるたびに
“私”というものが
知識で
感情を
押さえようとしても
そもそもが
不可能だった、と
分かってきました。
押さえようとすること自体が
エゴでした。
私は
思考が働かない状態に
少しずつ
少しずつ変化し、
自動で現れる
思いグセを
言霊によって
徹底して
制していきました。
頭での理解より
実感することの方が
遙かに
生き方が変わることも
納得するように
なりました。
波動が
どんどん高まりゆく中に
内側にある
感情の種は
どんどん芽吹き
感情が
モンスターのように
暴れまくり
言葉も行為さえも
荒くなることがありました。
それは
まるで
ナイフの使い方を知らない
小さな子どもが
ナイフを振り回し
自分も周りの人をも
傷つけ
痛めているかのようでも
ありました。
それは
大切なことを
忘れていただけ...。
だから
自分も周りの人をも
傷つけてしまっていた...。
本来の私達は
見えない命という
愛に生かされていること、を。
だから
生まれたばかりの赤ちゃんを観たら
誰でも
微笑んでしまいます。
人間に限らず
猫でも
犬でも
馬でも
赤ちゃんは
命そのものとして
輝いているのを
感じます。
命が
輝いているのは
光だから...。
命
光
愛として
自分の意識を
留めていられるように
意図し続けるとき
あれほど求めていた
心の穏やかさの一部が
姿を現してくれました。
それは
言葉にならないくらいの喜びで
思わず
涙が出て来るような感動でもありました。
誰もが
求めてやまないものは
もしかしたら
無条件の “この想い”なのでは
ないのでしょうか。
自分の中にある
正義と悪
好きと嫌い
良いとダメ
自分と他人
そんな分ける考え方(分離感)を
タマネギの皮を剥ぐように
取り払って
取り払って
そうする中で
日々の体験が
“私”を創造してくれています。
創造に
終わりは無くて
だからこそ
毎日が学びだと
解釈しています。
他者がいるから
気付きも学びもあり
目の前にいる人は
みずからの心を映しだしてくれている
大切な先生とするとき
見え方に変化が起こりました。
世界は
どんどん変わっていくのは
意識が変わっていくからです。
その世界が
どう映ろうとも
全ては
自分の意識というフィルター次第。
だからこそ
意識を高めていく努力を
大切にすることが
今
そして
これから
より求められているように
思います。
