感動は
エネルギーとなり
行動に繋がるきっかけとなっていく、と
リトリートを開催して
感じています。
自らも
様々な体験をして
感動したからこそ
新しい道へ進む
勇気が出てきました。
そんな私に
母から
メッセージが
届きました。
偏差値の話ですが、
偏差値を磨けば磨くほど、
人間の生きる力は弱くなる、
それは私たちは十九年間、
山にこもって実感したことです。
頭を使わないから元気が出るんです。
だから「下手な考え、休むに似たり」ですよ。
われわれは逆をやっています。
頭を磨き過ぎて生きる力を失ってきた。
理屈っぽくなった時は
生きる力がなくなっています。
まず、
理屈っぽくなると人間は行動しません。
頭を使う時は行動しない。
もともと頭というのは
行動のブレーキの役目をするものなんです。
だから、
石を投げるときに
「この石はどこに落ちるんだろう」と
考えたら、
石は投げられませんよ。
「石はどこに落ちるかわからない」と
思った瞬間に
行動はできる。
つまり、
頭は迷いをつくる場なんですよ。
だから、
「感動」という字を見るとわかります。
感じさせるから動いているわけです。
考えさせたら動かない。
感じるから動くんです。
だから感動が行動の起爆剤なんですよ。
感動できない人間は行動もできないし、
気骨も生まれてこない。
道元は
「仏の道とは行動することだ」と
いっている。
「行」しかないとね。
感動と感性は
「エモーション」という
英語になるわけです。
ところが、
エモーションというのは、
もともとエモーチュという
ラテン語からきているんです。
で、
ラテン語で「エ」というのは
「外」のことです。
「モーチーオ」は
実は
「動き出す」ということです。
だから、
「外に動き出せるもの」が
「感動」なんです。
情が豊かでないと人間は行動しないと、
言葉自身が教えてくれているんですよ。
『随処に主となる』致知出版社
行徳哲男師は「感性」についてこう語る。
(感奮語録)より
◆『長生きの人は皆
「我がまま」に生きている。
自分が自分で生きているから
長生きできる。』
◆『理性や知性を磨き過ぎることは
命をすり減らすことと等しい。』
◆『人間の衰退は
感性の摩耗(まもう)から始まる。』
◆『理性が強すぎると自由を止める。
笑いを抑え、
自分自身をがんじがらめにしてしまう。
理性とは体裁(ていさい)を作り出す。
しかし自然を遠のけてしまう。
感性は嘘いつわりで
固めることができない。』
◆『感性が鈍くなったと思えば
行動すればいい。
行動によって感性は誘導されてくる。』
◆『感動とは「論語」の教え。
「感即動」が語源。
感ずることは即ち動くこと。』
頭ばかり磨いている連中は行動ができない。
そして、情や思いやりがない。
このコロナ禍では、
多くの人は行動を制限され、
行動が鈍くなった。
リアルな仕事や、
旅ができなくなり、
思いもかけない新たな感動するという、
ワクワクする機会が減ってしまったからだ。
つまり、
日本中が今、
感性が鈍った状態になっているということだ。
たとえば、
政治の世界においても、
政敵の体のハンディキャップや、
難病のことを揶揄(やゆ)するような、
敬意や情や思いやり、
といった感性のない、
とても人間とは思えない発言をしてしまう。
感性が鈍ると、
自分の言葉にトゲや毒という、
人を傷つける刃物があることにも気づかない。
「感動なき民族は滅びる」
今こそ、
行動や実践を活発にし、
感動や感性を取り戻したい。
山へ
行こうと
思います。
あなたが
今日も
笑顔で
ありますように✨✨✨
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
スピリチュアル気功師MOE