人間が

文明と言われる

時代になってから、
 
“哲学”

“音楽”

“絵画”

“造形”

“宗教”

“医療”

“政治”

“農業”

“漁業”

“教育”

などなどを生み出したのは

ありとあらゆるものが

ただ

ただ

人間が

いかに

幸せに生きていくか...

そのために

生み出されました。





単に

細分化されただけで

元は一つです。






学問に於いても

心理学、

西洋史、

日本史、

地理、

数学、

国語、

倫理学、

数学、

などなどは

人がより幸せになるために

学問として

体系化されたに過ぎません。





でも、

学問について

“勘違いしている人”が

とても

多いように

感じます。




私は、

知識を否定しません。

無いよりは

在った方が

人生は豊かになりますが、

知識があって

物事を知っていることと

行動に移して

知恵にしていることとは

別物です。





初めての海外で

アメリカに行ったとき、

ロッキー山脈の山頂に

雪が白く見えた時、

知識としての

ロッキー山脈と

眼下に見える

ロッキー山脈が

一致し、

感動しました。





20代の頃、

お寺が好きで

京都に半月間

滞在したとき、

広隆寺の半跏思惟像を

目の当たりにしたときは、

あまりの美しさに

足が動かず、

3時間くらい

ずっと眺めていました。

美術や日本史で

知っていた

広隆寺の半跏思惟像と

目の前の

半跏思惟像が

一体化した

あの感動は

言葉にはなりません。 

知識があれば、

幅広い年齢層の方とも

話ができたりもします。





保育園の子ども達を

見ていたら

分かります。


「これ、なあに?」

「どうして?」

問いかける

その表情は

目がキラキラしています。




本来

学ぶことは

“学問”と

言われるように

「なんで?」

「どうして?」

「不思議だな...」

問いから

学びにへと

発展したものです。



ところが、

本来は

学びを深め、

人生を

心豊かにするはずの

学問が、

受験という

比較・競争・争いの

手段として

用いられるようになってから、

意味合いが

大きく変わりました。



偏差値の高い高校・大学に

入学する人が凄いとされ、
 
また

就職は

入学した大学により

半ば決まったようなものとなる分、

大学受験は

一部点集中化するため、

幼少期から

塾通いする子ども達も

少なくはありません。



教員をしていた頃、

勤務を終えて

帰宅する頃に

塾へと入っていく

子ども達を

見たとき、

「この子たちは、

 本当に幸せなんだろうか


思ったことがありました。



自分で

勉強したくて

塾に行く意思から

通うなら、

学習内容も

身に付いていくのでしょうが、

ただ

受験のためだけに

親が強制して

塾に行かせるならば、

身体は塾に行っていても

意識は別の所にあり、

学力は身に付いていかないように

思います。



感性豊かな時期に

塾での詰め込み授業を

受け続ける時間が

私から見たら、

とても

勿体ないように

感じました。





それは、

個人の主観なので、

人それぞれです。
      



ただ、

知識偏重が

必ずしも

人を幸せには

しない、と

いうことは分かります。








全ては幸せを感じるために

生まれ出されました。   


“幸せを感じられるように”

日々

感性を大切にしたいと

強く

思います。





あなたが

今日も

笑顔で

ありますように✨✨✨





熊本県合志市野々島

なぎの木整体

スピリチュアル気功師MOE