私が気付いたとき
学校の通知表は
1、2、3、4、5の
5段階評価の
いわゆる
相対的評価でした。
それぞれの数字に対して
決められた割合の
児童が
割り振りをされるのです。
例えば
1の評価にはクラスの5%
2の評価にはクラスの10%
3の評価にはクラスの70%
4の評価にはクラスの10%
5の評価にはクラスの5%
というような感じです。
なので、
クラスで
どれだけ仲のよい友達であっても
通知表を貰う時には
競争する相手になっていました。
数字の評価が高ければ
束の間の優越感に浸り
数字の評価が低ければ
劣等感に苛まれていたのです。
それは、
私が
小学生の時のことでした。
どれだけ仲良く遊んでいても
無意識に
「負けたくない」
という気持ちが沸き起こっていました。
こんな私の気持ちに
追い打ちをかけたのは、
祖母の
「人に負けちゃなんたい」
(人に負けてはいけない)
と言われても育った父の存在でした。
私は
相対的評価の通知表を
父に見せることが
非常に怖かったのです。
中学生になる頃には、
中間テストや期末テストで
順番が表示されます。
まさに
相対的評価でした。
そんな感じでしたので、
気付くと周りは
競争相手として
私の目に映っていました。
心が落ち着く暇なんて
一時も
ありませんでした。
常に
追い立てられるような
気持ちでした...。
でも、
いつしか
それが「普通」となり、
感覚も麻痺していきました。
一方で、
私が特別支援学校の教師だった頃は、
在籍する児童は障がいの故、
評価は
絶対的評価でした。
個人に応じた目標設定をし、
評価は
全て文章表記でした。
誰かと比べることは
一切ありません。
もし
仮に比べるとするなら
過去の自分と
比べるのです。
しかも、
過去と比較して
今
どれだけ成長したのかに
視点を向けています。
障がいのある児童の成長は
それぞれに応じて様々で
ゆっくりしたものではありましたが、
どんなに小さな成長でも
それを見つけて
表記していくことは
教師として
とても幸せな瞬間でもありました。
大人になってからは、
今度は自分の心の中で
相対的評価が
続いていきました。
評価するものは
「幸せ」でした。
偏差値が高い大学に合格したら幸せ、
収入が高い所に就職したら幸せ、
結婚したら幸せ、
赤ちゃんが産まれたら幸せ、
高級車に乗れば幸せ、
マイホームが持てたら幸せ...
自分の中にある
そんな基準から外れたら
すぐに不安が襲ってきました。
「不幸せ」なのです...。
比べる相手は
身近な人だったり、
Facebookなどで目にする人だったり。
でも
それが当たり前すぎて
自分の苦しみが
何処にあるのかさえ
気付きませんでした。
比較、競争、争い...
それをベースにした教育は
人を幸せにはしません。
一部のトップになる人にのみ、
有効なシステムです。
私は
3次元世界の生きにくさを感じ、
学校組織から離れました。
どっぷり3次元世界に浸かっていた私が、
全てを棄てて
見えない世界に身を委ねるのは
相当な覚悟でした。
でも、
自分の内側から沸き起こる
幸せな気持ちに
素直に正直に
感謝しながら
生きている今、
大切なことは
相対的なもの
(文字通り、
相対する誰かと比べて
何かを判断する)
よりも
絶対的なもの
(自分の内側にあるもの)
だということでした。
誰かと比べて
私は不幸...もありません。
それぞれの世界は
それぞれの創り上げたもの。
その世界にいる本人にとって
不幸ならば
それは
周りから見て
どれだけ幸せであっても
やはり不幸なんです。
不幸についても
相対的なものではなくて、
あくまで
本人の心次第なんです。
身長と体重を比べて
どちらが凄い?
と訊いても
答えが出ないように、
幸せも
本来
誰かと比べるものでは
無いのです。
幸せとは
唯一
自分自身の中に
存在するものなのです。
あなたが
今日も
笑顔で
ありますように✨✨✨
熊本県合志市野々島
なぎの木整体
スピリチュアル氣功師MOE