入院生活中に








病院内では
カイロプラクティックや
アロママッサージがあり
それらの施術は
入院患者には
無料で
提供されました。
カイロプラクティックの先生の
会話のやりとりは
毎回私の心を解放しました。
涙が溢れるのです。
身体は楽になりました。
男性の先生でしたが、
安心感がありました。
一方で
アロママッサージは
肌を直接触る女性でしたが、
それほどまでに
私に伝わるものは
ありませんでした。
アロママッサージの方は
女性でしたが、
その施術に
愛を感じられなかったのです。
私は
時々
衝動的に死にたくなりました。
部屋に持っていたカッターナイフで
手首を切ろうとしていました。
部屋にカッターナイフがあるのは
フラワーアレンジメントを
するためでした。
比較的規則が緩かった病院なので
何でも病室にもちこむことができました。
しかし
手首を切ろうとした私は
ナースステーションに
しばらく
管理されました。
トイレに行くときのみ
その場を離れることができたのです。
命を守るためだったのでしょうが
それは
息が詰まる場所でもありました。
入院生活は約一カ月半くらいになりました。
しかし、
私は
このまま
入院していても
自分は治らないと
思い始めました。
私は
自分の力で
治していく...
そう決めたと
同じ時期でした。
校長から
病院に電話が
かかってきました。
初任者の教員は
1年間の条件付き採用です。
休職という権利は
使えませんでした。
私は
病気休暇扱いで
療養していたのです。
私に
教師を続けるか
教師を辞めるかの
タイムリミットが
近づいていました。
教師は
私の幼少の頃からの夢。
これを辞めたら
私は何をして生きていくのだろう?
でも、
私は学校の中で
うまくやっていく
自信がない。
小田原に戻るのが怖い...。
私は、
先が見えないままに
教師を辞める道を
選びました。
小田原では
これ以上
教師を出来ないと
感じていました。
ほっとした安心感と同時に
未来が見えない不安がありました。
病院を退院する日は
すぐに決まりました。
最後の
ドクターの
診察で
私は
こう言われました。
「あなたは、うつ病ではなく
適応障害だったのです。」
当時の私には
うつ病と適応障害の違いが
全く分かりませんでした。
しかし、
退院する私にとっては
もうどうでもいいことでした。
私が教師を辞める決断をし
荷物を引き払うために
小田原に戻ったとき
私の指導教官は
気の合う教師数人と共に
居酒屋に連れて行ってくれました。
「いい先生になっていくと
信じていたんだ...」
そう言われました。
その言葉に
私は
期待に添えなかった自分を
強く
責めました。
自分を
負け犬だと
思いました。
最後に見送りに来てくれたのは
同期の教師1人でした。
その人も
岡山出身で
神奈川に採用されて
独りで頑張っていた人でした。
ここでも
私は、
感じました。
この人も
私と同じ状況なのに
この人は
教師を続けている。
私は、負け犬だ...。








親元に帰ってからも
人の目に触れることが
怖い私は
ひきこもりとなっていました。
外に出るのに
帽子は手放せません。
人の視線がたまらなく
怖かったからです。
実は
私が
入院していたときに
私を支えてくれたのは
小石原焼の仙人でもありました。
「あんたはな 頑張りすぎたんだな
頑張るって漢字を書いてみい。
頑なに張るだろ...。
頑なだけでもかたいのに
それ以上に張ったら
糸は切れてしまう。
あんたは、頑張りすぎたんだ。
もちょっと力を抜いたらいい」
うつ病の私に
自然体で接してくれる
仙人。
私の親でさえも
私に腫れ物を触るように
接していたのに...。
仙人のこの姿から
私は
どれだけ
力を貰ったことでしょうか...。
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