神道 | 不動明眞

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AKIMASA FUDO AKIRA

神社の宗教は「神道」です。

一般的に宗教は、仏教やキリスト教といった

「〇〇教」という呼称になります。

 

仏教ならば、釈迦の教えをまとめた「仏典」

キリスト教ならば、旧約と新約の2つの「聖書」

という経典があり、それぞれ人が行うべき教えや

守らなくてはならない戒律があります。

 

しかし、神道にはそもそも教えや戒律がなく

経典もありません。

 

では、「神道」という語はどのような意味なのでしょうか

「神道」という熟語はもともと、中国でつくられ、

「霊妙なる(神の)自然の理法(道)」

という意味です。

 

自然とともにその一部として暮らした古代の

日本人たちの信仰と合致したため

後世に「神道」という言葉を名称に用いられたのだと

考えられます。

 

このように考えると「宗教」というよりも

「信仰」といった言葉の方がしっくりくると

思います。

 

●神道の心を伝える「神典」

 

神道に経典はありませんが、「神典」と呼ばれる

ものがあります。

現存する、最古の歴史書「古事記」や最古の正史

「日本書紀」にはじまり、地方地誌である

「風土記」や最古の歌集「万葉集」に至るまで

の古記録文献を指します。

 

これらはあくまで「記録」であり「〇〇をしなさい」

「□□はしてはなりません」といった体系的な

教えはありません。ただ、これらの記録に描かれた

神々の様子や人々の生き方から、

日本人の人間観を読み解く事はできます

 

「神典」の受け止め方は人それぞれですが、

神道では「言挙げ」しないことを美徳とします

「言挙げ」とは「言葉に明確にすること」を指します

 

「神典」がはっきりとした教えを提示しないのも

このこの言挙げしない理念からです。

 

神道は自然信仰がベースにありますが、

「自然」が何かを語りかけることはありません。

例えば、森の中の巨木などに対して神聖なものを

感じるのは、日本人にとって当たり前の感覚だと

思いますが、そこから何か明確な「教え」「考え」

が提示されるわけではありません。

 

神道とは「理解」するのではなく「感じる」信仰と言えます

 

一方、仏教やキリスト教は生きる上での苦しみから、

人々を救うことを目的にして生まれました。

 

仏教では人は死ぬとまた、別の生命に生まれ変わります。

これを輪廻転生と言い、一見よいことに思えますが

苦しみに満ちた世界で何度も生活をすることは辛いもの

と考えます。そして苦しみのサイクルから抜け出して、

生命を超越した存在=仏になること、を目的

とします。

 

キリスト教では、人が苦しむ理由は最初の人間アダムとイヴ

が神の禁忌を破り楽園を追放されたためと考えます

この人間が犯した罪を「原罪」と呼びます。

 

キリスト教では人間は生まれながらにして

罪を背負い、神から罰を科せられた存在と捉えます

 

神道が世界を肯定的に捉えるのに対して、

仏教とキリスト教は世界が苦しみに満ちており

人は未完成な(愚かな)存在であるとします

 

神道が性善説であるのに対して、

仏教とキリスト教は性悪説をとっていると

考えられます。

 

ところで、現在起きているロシア、ウクライナ戦争や、

ハマスとイスラエルなどの戦争を考えると、

欧米諸国の国々が、キリスト教の聖書に

沿って動かされている感じがうかがえます。

 

日本人に生まれてくるというのは、

あまり宗教的概念に支配されない人が多く

日本人に生まれているんです。

 

それでも、もし第三次世界大戦が起きて

世界の大国が核の応酬で戦争をしたら

それに巻き込まれる可能性はあります。

 

それでも、日本という国だけは滅亡するということは

ないと私は信じています。