今、いじめの問題がある事件をきっかけにクローズアップされているが、その中で、学校の先生についての意見や考えも多くみられる。
学校の先生。。。
自分の小学校時代、中学時代、高校時代の学校の先生を顧みると、。。。
結構書ける。
で、私の小学校時代の先生のはなしをちょっと。
時代にして、昭和45年~昭和61年。
小学校時代の私は、引っ込みじあん、でおとなしい。内向的。。。一人でも遊べるタイプ。人の輪に入っていけないタイプ。
私は、一人っ子なのだが、当時の時代では、、一人っ子は、結構珍しく、お坊ちゃんだと思われていた。
しかし、3歳から5歳までの約2年半。母が病気で長期入院して、同居していた父の妹が、私の世話をしてくれた時代があり、この時の自分は、決してお坊ちゃん扱いは、されていない。
自分でいうのも何だが、3歳から5歳まで。幼少期に、母がいないという事は、人格形成においては、かなり重要な要因だと思う。
小学校時代の私の通信簿に書かれていた補足事項は、「内向的でひっこみじあんな性格ですので、もう少し、積極的になって欲しい」は、この時に形成されたと自分で思う。
小学校1年生の先生。
40代後半?の女性の先生だったと思うが、授業中、とある試験の解答の提出時に、先生に私の回答をバカにされた記憶がある。
私の名前は言わないが、私の回答をみんなの前で・・・。
当然ながら、先生にバカにされた回答は、私の回答だとすぐに判った。・・・恥ずかしくて、耳が真っ赤になったことを覚えている。
小学1年の時の先生には、申し訳ないが、この記憶しかない。。。。
小学校2年生の先生。20代後半の女性の先生。
この先生は、私の事を「やればできる子だ」と初めて言ってくれた先生だった。
小学校1年生の時、5点評価で2と3ばかりの成績の私を母はかなり心配して、家庭教師をつけたり(これはやはりお坊ちゃんか?)、この担任の先生に私の事を積極的に相談したらしい。
その結果は、2年生の成績は、上がり、ほとんど4ばかりの成績となった。
「やればできるんだ」って自分でも思う事が出来て、性格も明るくなってきた。
この先生がいなかったら、また、親が放任主義だったら、オール2のままだったかもしれない。
小学3年生。30代後半の女性の先生。
この時の先生も2年生の先生と負けず劣らず、良い先生だった。
一言で言えば、生徒を褒める。悪いことしたら叱る。でも、短所は指摘しない・・・。
当時、マンガを描くことが好きだった私は、仮面ライダーをよく書いていた。友達にも評判で、仮面ライダーの絵を頼まれて書いたりしていた。3年の終わりに、先生に頼まれて(今思えば、私のことを気遣ってくれたのかもしれないが)、仮面ライダーの絵を先生にプレゼントしたのだが、翌年度、先生のご自宅に友達何人かで遊びに行ったら、私が書いた仮面ライダーの絵が飾ってあったのを今でも覚えている。
その絵をみて、スゴク嬉しかった。
小学4年生の時の先生。
20代半ばの女性の先生。。。。この先生は、最悪。いじめ放任主義で親からもクレームが出たくらい。
しかも、いつも平坦な表情でこの先生の笑った顔を見たことが無い。
この先生は、自分の担任のクラスをまとめる方法として、クラスのボスを押さえておけば、生徒を統率できるという考えでボスによる他の生徒へのいじめ行動は黙認。
私がいた4年生のクラスは、3人のボスがいて、ボス達は、日々、天下取りに励んでいた。
ボス達は、勢力争いのため、子分の取りっこして、結果、いじめも横行していた。でも、先生は見て見ぬふりして、ついには、親が学校に乗り込み。。。
私もいじめられていたのだが、うちの場合は、私の父がいじめっ子の親に直接言ったようだ。
きっとこの先生じゃあ、ダメだと思ったのだろう・・・。結果、いじめは無くなったが。
もうひとつ、この先生と自分個人の事では、嫌な思い出がある。
当時、私は、鼓笛隊のタイコ隊に憧れていて、中タイコを是が非でもやりたかった。
鼓笛隊の結成は、5年生の時に行うのだが、鼓笛隊を編成するのにあたり、指揮者、鼓笛隊などの目立つ部隊は、4年生の最後に予めメンバーを決めることになっていた。
メンバーの選考方法は、一番目立つ指揮者は、通常、学級委員長とか見た目(評判のカッコイイとかカワイイとかで人気のある生徒)で選ばれていた。
私がやりたいのは、タイコ隊なのだが、この選考方法は、ズバリ先生の独断だった。
タイコ隊の選抜時、先生が、「タイコやりたい人は手を挙げて」と挙手を求め、先生は、生徒たちの挙げた手を教壇から見ながら、「・・・えーと、あなたと、、、。じゃぁ、あなた・・」なんて、選考理由もいわず、わずか数秒で先生の独断即決で選ばれ、私は落された。
というか私の挙げた手は、先生から無視されていたな。たぶん。
とてもやりたかった鼓笛隊のタイコ部隊であるが、タイコを叩かせるとかの審査もせず、ただただ、先生がご自分のお好みで選らんだその選考は、子供の自分には、納得できず、きっと自分は先生に嫌われているんだと思った。
これで、私の通信簿に「もう少し積極性を出して」。。。そりゃないだろう?。。せっかく、やりたくて挙げた手なのに、先生の独断であっという間に落とされて・・。
まだ、ジャンケンの方が納得できた。
最後は、小学5年生~6年生の先生
2年間同じ先生。30代男性の明るく行動力があっていつも笑顔の一応大人気の先生だったが。
が、私は、好きでは無かった。
短気な先生で、よく生徒を引っ叩いた。私も叩かれた時がある。
この先生は、生徒を贔屓する。贔屓された子供は、地元の実力者の子供とか、名家の子供、クラスのボス達だ。
私は、贔屓されない方だった。
今でも忘れられない一件として、工作の授業で、木材を使って自分の好きなものを作ってよい授業があったのだが、私は、当時ブームだったサーキットの狼の中でとても人気のあった「ランボルギーニ・カウンタック」を作ってみようと、かなり入念に一生懸命に作った。
ランボルギーニカンタックのフェンダーからフロントボディからの曲線の加工がかなり難しく、自宅で木材をローソクで炙りながら、少しずつ曲げていく細かい手間をかけ、自分でもとても気に入った模型が出来たのだ。
出来あがったその模型を、翌日、学校で自分の席の隣の窓のところに置いておいておいたら、先生が、何の気なしに窓のところに腰かけ、私が作った「ランボル~~」は、先生のお尻で一瞬でグチャ!
窓部に、腰かけた先生のお行儀の悪さもいかがなものか??であるが、先生は笑って「悪い、。悪い。。」と得意の笑顔で謝り、それで終了・・・。置いた私がいけなかったのだろう・・・。
もう一度作り直したが、ちょっとめげてしまって、もう同じ様なものは出来なった・・・・・。。
この先生、生徒にも父兄にも人気があるとからしく、卒業後、先生のご自宅に希望する生徒たちで遊びに行ったらしいが、勿論私はパスした。
訪問したのは、クラスの半数くらいかな?
最後の卒業式にも先生と贔屓された生徒達は、号泣していたけど(もちろん私は泣きません)、後日談として、私たちが成人になってからの同級生たちで集まる席で、本当はこの先生の事を嫌いだった。という人が意外と多かったこと。
理由は、私がこの先生を嫌いな理由と同じ。えこひいきが凄かったから。。。。
やっぱり、みんなわかるんだ。
でも、自分たちの当時の小学校の先生なんて、こんなもんだ。
なので、小学校時代の自分が恩師と呼べる先生は、2年と3年の時の先生のみ。
あとは、ろくなもんじゃねえな。
とはいえ、先生も人の子。
まだ、恩師がいただけマシかもしれない。