【ワタシの履歴】
ワタシは普通科の県立高校に進学しました。中三の北辰の偏差値が73ありましたので、大宮高校でも春日部高校でも不動岡高校でも浦和高校でも、どこでも受かると当時の担任に太鼓判をおされていたのですが、自転車で通える所が希望でしたので地元の県立高校に決めました。
現役で大学を受験し、福岡工業大学と大阪経済包茎大学が受かりました。しかし、福岡工業大学は学長が笹川良一でしたので辞めました。大阪経済包茎大学の方も、学長はトルコ風呂などを手広く経営していたヤクザでしたし、教員にもヤクザを採用していることを知りましたので辞めました。
そして浪人生活に入りました。
予備校は水道橋の研数学館にしました。医学部受験コースで毎日猛勉強しました。予備校から帰って来ると疲れて寝てしまうので、夜遅くまで予備校の図書室で勉強してから帰りました。予備校が休みの日は浦和の図書館へ行って勉強しました。うちが高速道路の前で
、騒音が気になって勉強出来なかったからです。浪人時代は殆ど遊びませんでした。
遊んだ思い出といえば、牛込神楽坂の映画館で新東宝の映画を見たことくらいです。あと上野の映画館でも、代々木忠監督作品の性感極秘テクニックも見ました。
たしか、同じく代々木忠監督作品のザ・サバイバルとかいう映画と二本立てだったと記憶しております。
ワタシは高校性活も勉強一筋でしたので、遊びといっても映画くらいしか思いつきませんでした。
浪人時代に遊んだ記憶はそれくらいしかなく、まさにションベンから血が出るほど勉強しまくりました。
そのように寝る間も惜しんで勉強に励んだ甲斐があり、帝京大学医学部・獨協医科大学・東京慈恵会医科大学・東京女子医科大学・浜松医科大学・防衛医科大学と、九州大学の医学部に受かりました。
サーファーに憧れていたので、琉球大学の医学部も受けてみようと思っておりましたが、試験日が重なり受けることが出来ませんでした。おかげさまで、受験した全ての大学に受かることが出来ました。
そして、伝統ある九州大学に進学することに決めました。
ワタシは九州大学医学部を卒業後は大学院へは進学せずに、米国マサセッチュッ^3^チュッ^3^チュッ^3^ヒラリークリントン藝術音楽短期大学神経症内科に医学留学致しました。
チュパチュパ大学じゃありませんからね!チョッチュネーーーでもないですからね?ワタシがこれだけ真面目に書いているのですから、皆さんも真面目な気持ちで読んで下さいネ?
そして帰国後、港区南青山にある平田肛門で1年間お世話になりました。
その後、鶯谷にシロヤギメンタルクリニックを開業し、鶯嬢の心の支えとなりました。
仕事でボロボロになった乙女たちの心の支えとなり、生きるバイブとなって、精力的にメンタルケア活動に勤しんでまいりました。
一年間は寝る間も惜しんで、彼女達の為に働きました。
悩める子羊たち一人一人に、ワタシは真正面から向き合って来ました。
ワタシが鶯谷にいた当時の、鶯嬢たちの自○率が激減したのはいうまでもありません!
しかし、仕事の忙しさのあまりワタシが鬱病になってしまい、医師を引退してしまいました。
あの時は本籍地である那須町に戻り、焼き立てパンの移動販売をはじめようと思いました。
医師を辞めた後、那須町へ移住するまでには長い年月を費やしました。そして、様々な仕事にも就きました。川口の凸版印刷でもアルバイトをしました。
しかし、単純作業が辛くてすぐに辞めてしまいました。
その後アルバイトを転々とし、スロプロをしていた時期もありました。
大学時代に友達の影響でパチスロを覚えており、コンチネンタルのリーチ目と覚設定判別はプロなみでしたからね!
とにかく攻略ネタが豊富でしたし、今よりもホールの状況もよかったので、大学なんて行ってるのが馬鹿馬鹿しくなっちゃったんですよね?(苦笑)
スロプロをフル稼働で夢中になってやっていたら、気がついたら30代半ばになっておりました。
ワタシは埼玉でジグマスタイルで稼ぎ、スロプロ人生でマイナス収支の年は一度もなく、一番低かった年でもプラス200万円はありました。
では、そんな順調だったスロプロのワタシが辞めるきっかけとなったこととは。。。
ちょうど東北の震災があって、当時付き合っていた彼女が将来のことを考えて真面目に働いてほしいって言われたりして、ギクシャクし始めて……。
父親も肺癌になったり大変だったので、じゃあ一度人生をリセットしようと思って、彼女とも別れて実家に戻ったんです。
でも、実家に戻ったら現実を突きつけられましたねぇ?
スロプロを辞めて実家に帰って来ても、医師しかまともにやったことがなかったので、まともなところで働く自信が全くないんですよね?
地元は倉庫関連や工場も多かったので、期間工とか単発のバイトみたいなことをしながら正社員になれる道を模索していたんです。
その時はもうすごく悩んでいて
、パチンコ屋の看板見るだけで『スロプロなんてなんなきゃよかった』って思ったり。。。
そんな時、大宮から出ていた県会議員の竹内さんと飲む機会がありまして。。妹の旦那の親戚だったんですよ!これが転機でしたねぇ。。。当時の新藤大宮市長ともつながっていて。。。
大宮市場と縁が深かった竹内議員にある会社を紹介され、面接で履歴書を見せるとその会社の社長から「九州大学卒業か?この市場じゃ東大卒業くらいの価値があるな!」と言われたんですよ。そのままワタシはその会社で御世話になることになりました。
その社長も5年程前に亡くなられて、今はその社長のお子様が会社を運営しているそうです。
市場を辞めてからもいろいろありましたが、最終的には本籍地である那須町に戻って来たわけです。現在のワタシはいわゆる進学塾ではなく、人生についていけない人のサポート的な塾を開いております。焼き立てパンの仕事で食べて行けますので、こちらの方は殆どボランティアみたいなものです。発達障害の人って、やり方や解き方のコツががわからなかったり、なかにはすぐにキレてしまう子もおります。ワタシの塾ではデキる子を育てたり受験勉強をさせるのではなくて、人生に興味を持たせることを考えて指導しております。長年に渡り自宅に引きこもっていた人の中には、唯一の承認欲求を満たす手段が自己満足ブログを書くことだったような人もおりましたが、ここではグループミーティングで自分の気持ちをみんなの前で話すことが出来ます。人の前で自分の言いたい事が言えるって、ものすごいストレス解消になるんですよ!皆さん話しているうちに、目が生き生きとして来ますからね?そんな仲間達で音楽サークルも作っておりまして、年に数回、友愛の森のコンサータにも参加させてもらったりしております。
ワタシ自身、世間の目からすれば道を踏み外したヤギです。
でも、別に道なんて踏み外して寄り道すりゃいいんですよ!
子供たちには、好きな道を歩いて行ける道しるべみたいなものを教えたいと思っております。
そうだなぁ?思い出の台と言えば、テンタクルズかなぁ?
この台、当時人気だったタコスロの兄弟機って触れ込みだったんですけど、とにかく目押し難易度が高くてリプレイハズシは常にビタ押し、そんな台だから目押しがある程度できる人が打っても辛いんです。そうなると必然的に設定は甘くなってました。でも、ワタシからすればライバルはいない、設定は甘いという天国みたいな状況。毎日オナニーして抜いてました。(笑)
抜かれるからすぐに消えたんですけど、スロプロ時代に大学時代に過ごした九州に旅打ちした時にたまたま見つけて、もう嬉しくて嬉しくて、3日間通ってヌキまくりました。
3日目に『すいません。もう、来ないでください!』って初めての出禁(笑)。目押しで食えるって実感が出来た台でしたねぇ?
でもあの頃は今と違って、パチンコ屋にも活気があったなぁ?
朝300人以上並んでた時で抽選で17番を引いた事があったんですけど、順番に入らなければならないのに、入口をすぎるとみんな早足になっちゃって?
台まで走って行く人までいて?
ワタシなんて歩くの遅いから、どんどん後ろから来た人に追い抜かれちゃいましてねぇ?でも17番を引いたってことは、神様が今日は末尾7番の台で勝負しろって教えて下さったのだなぁ?って思いましてネ。末尾7番の台ばかり探したものでしたよ!ホントに懐かしいなぁ?
スロプロ時代の頃を思い出すと
、何だか今でも胸がドキドキ高鳴りますねぇ?