昨日は3月に決めた車の納車でした。


朝、娘を送ったついでにお借りしていた代車にガソリンを入れに行くついでに洗車しようと思ってたんですが、それはセルフの300円の洗車機でした。


近くのフルサービスのガソリンスタンドだったら簡単なコーティングと車内清掃したら4000円弱かかるんですけど、そこまでしなくていいよね〜と思った瞬間、先生からそっちにしなさいとのインスピレーションキメてる


ええ〜って思ったけど、この後に迎えるわたしの車とお返しする代車。


わたしのものとわたしのものではないもの? 



は!


今までは自分の物にお金かけたいけど、他はなるべく安くしたかった。

いや、自分の物ですらなるべく安くすませたかった不安


人生がサバイバルだったから。



生き残るための人生から、明け渡すための人生に変わったことを感じながら、お借りしていた車にコーティングをお願いしました。



借りてたものを綺麗にして返すというマナーの話とか、お金をかけたらいいという話とはちょっと違う。

もちろんマナーは大事だし、そこに心が伴って、お金をかけれるならかけたらいい。


ただ今まではお金かけずになんとかできるものならしたかったひらめき


すべてにおいて・・・




お金かけたらいいわけじゃなくて、お金出したら入ってくるよーとかでもなく。



今までは、自分のことしか考えてないお金の使い方や人との関わり方だったなと気づきました。





最近の実践はとにかく明け渡すことなのです。


例えば先生からくるインスピレーションはアーユルヴェーダの教えとか健康に必要と言われてることと違うこともあるし、清貧でない時も多い。



それをただ明け渡すという実践。



それを実践してたら、それまでぎゅーっと掴んでた「わたしのもの」がゆるんでほどけていきます。



さて、納車された車。


ナンバープレートも選ばずに明け渡したので、どんな数字になるのか楽しみでした。


届いたものは、バラバラの数字。


だけど、昔乗ってた車とほぼ同じで泣き笑い




自分で選ぶより明け渡す方がおもしろい。


自分が選ぶ、それに固執してることの方がしんどくなってきました。








娘はいつも「内なる先生に従うとうまくいく」を身近で見ていてその完璧さを知ってるのですが、今日聞かれました。


「先生の言うことに従わないとどうなるの?事故にでも遭うの?」


と。





でも私従わなかったことも山ほどあるんです。


小さな感覚は気づかないフリをしたりして。


あるいは、わかってるけど怖いから無視したり指差し


大きなお金のことや、今までの自分の信じてたことからかけ離れてしまうことは、怖さに負けて従わなかったことあります。


別に不幸になるわけじゃないです。


ただ遠回りしていくことになるって感じで捉えてます。

重たい荷物を抱えて。





従うとは明け渡すこと。


明け渡すとは重荷を神に預けてしまうこと。


それをしないってことは、同じ場所に行くのに重たい荷物を持って行くこと。


それも神様は慈愛の眼差しで見てくださってます。



自分で重たい荷物を持って歩くことこそが人生だし修行だと思ってたものが、荷物を預けて歩くのをやめることが修行で、どんな人生であろうとも、人生と呼ばれるものはすべて神さまから離れたものではないと知っていく喜びの道。



その違いかなぁ。




娘には、勉強してこの人生をコントロールしてもいいけど、内なる先生と繋がる方が楽だとは話しました。


でも押し付けたくはないので、好きなように生きればいいです。