伝香寺にはまだ新しい順慶堂があり筒井順慶法印像が安置されています。
なかなかのイケメンですよね。
順慶は武将であるはずなのに、僧の姿をしているのを見て不思議に思いましたが、
実は後で興福寺の衆徒(しゅと)出身だからと知って納得しました。
大和には他の国のように守護代大名が存在せずに、興福寺が国を支配していたようです。
そして衆徒とは、興福寺が大和国内の寺領の有力者を僧に準じて認めた者のこと、
興福寺に属する僧の身なりをした武士のことだそうで、後には僧兵と呼ばれたようです。
つまり筒井家はもともと衆徒として興福寺を守っていて、
選ばれて奈良の警察のような仕事をしていたので、官府(かんぷ)衆徒とも呼ばれていたようです。
順慶は法印僧都に昇り、謡曲や茶の湯にも優れた教養人でもありました。
順慶を苦しめた松永久秀という武将は戦国時代屈指の謀略家でそうで、
主家の三好長慶とともに下克上の典型的人物だそうです。
奈良北町エリアにある若草中学校に久秀の築いた多聞城跡があります。
3年ほど前に友人と散策したとき、ぶらりと近くまで行ったことを想いだしました。
その時は松永久秀という人物に少しも興味を抱きませんでしたが。
今回もばらばらだった情報が整理されて合致していく感覚が
まるでテトリスゲームをしているようでおもしろいです。
多分伝わりにくい私だけの感覚でしょうが、、、。
順慶の母の芳秀尼は山田道安の妹で、道安は順慶の伯父にあたるそうです。
順慶たちと久秀の奈良での戦いのとき、結果的に東大寺大仏殿が炎上してしまったようですが、
道安が自費で大仏を修復したことで知られているようです。道安ってすごい人物ですね。
日本の歴史は長くて深くて、どこを切り取っても、
歴史音痴の私には新鮮でぐいぐい惹きつけられます。
歴史を学ぶ楽しさに気付くのが遅すぎると後悔しますが、私にとって今がその時だと思うことにします。
さて、このお寺の地蔵菩薩像は「はだか地蔵尊」として親しまれているようです。
普段は衣と袈裟をつけていますが、年に一度、7月23日の地蔵会の日に、
着せ替え法要があって新しいものに衣替えするそうです。
この地蔵菩薩像はもともと興福寺延寿院地蔵堂にあったといわれ、客仏のようです。
明治初年に移されたといいますから、廃仏毀釈で難を逃れた仏様でしょうか。
鎌倉時代一部で流行した裸形着装像の代表的な例に一つといいます。
またこの仏像の作者については資料はあまりないようですが、
鎌倉時代前期、南都で活躍した仏師善円である可能性が高いと云われています。
それはこの地蔵菩薩像の少年のような清純な顔立ちと
東大寺指図堂の釈迦如来像の面立ちが似ているからだそうです。
二つの像には同じ作風の特色があるようですが、いつか見比べてみたい気がします。
最後にもう一つ。伝香寺のような由緒あるお寺の境内に幼稚園があるのに驚きました。
少し残念な気持ちがしましたが、いつの世でも寺が生き残っていくことこそが
大前提でしょうから、なにか他の事業に関わっていくことも止むを得ないことなのでしょうね。
さらにもう一つ。見落としていたものがあって、後日また確認のため伝香寺を訪れたのですが、
残念なことに4時をとっくに廻っていたので閉門していました。
それは龍の足が刻まれているという石。
なんでも奈良時代の実円寺にあったことを示す唯一のもののようです。
私はいつもちょんぼしています。
このたびも最後まで読んで下さり感謝です。







